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3F/長期滞在者&more

食べ物が自分ではないこと

長期滞在者

長期滞在で毎月書くぞと言いながら初っ端からスケジュールを崩してしまった。

なんだか本当にアトピーの状態が良くなくて、日々の生活がかゆみや痛みに支配されてしまっている。夜中に自分の肌をかいてしまって、朝起きてそのことに気づく。アトピーの人にはよくあることだが、寝ている時、無自覚のうちに自分の身体をかいてしまう。朝起きてシーツに血がついていたり、身体の肌がめくれているのを見るのは、一日の始まりとしてあまり心地よいものではない。ここ数ヶ月、特に症状がきつく出てしまっていて、日々の生活の中心がアトピー中心に回っていた。本来そこにいるべき自分がいない。生活を取り戻さなければ。

自分のアトピーは小さい頃からで、食物アレルギーとアトピー性皮膚炎のコンボということで治療を受けてきた。ひどい時には食べ物を口にしただけで口の周りが赤く腫れたり、患部から滲出液が滲み出して生活どころではなくなることもある。でもそんな酷い時期はまれで、だいたいは生活習慣に気をつけながら過ごすことで症状をコントロールしている。身につける衣類の材質、食べるもの、睡眠時間、保湿、等々。自分にとっての「健康」は、この皮膚炎を自分でコントロールできている状態のことで、症状の手綱を握っておけることだ。悪化したり、改善するその緩やかな因果関係を自分の生活の中で位置付けることができること。これが出来なくなると、保湿剤以外の薬に頼らざるを得なくなる。

生まれた頃から卵や乳製品がだめだったり、大豆がだめだった。そう言われて育ってきた。幼稚園で配られるお菓子は自分だけ違うものを食べていたし、みんなで食べるご飯は食べることができなかった。小学校に上がってからは給食の代わりに母親が給食の献立に似せた代替食を持たせてくれた。「どうやら自分は他の人の多くとは違う身体っぽい」というぼんやりした気持ちが、やがて「みんなと違う身体だから仕方ない」になった。仕方ないと自分に言い聞かせながらなんとかやってきた。思い返せば、みんなと同じものが食べられることは自分にとってとても特別なことだ。

乳製品がダメとか、卵がダメとか、アレルギーというのは花粉症でもなんでも、敵でもなんでもない他者に対して「こいつは敵です」と過剰な免疫反応が引き起こされることによって起こる。だから僕の身体は、食べ物に対して他者が入り込んできたと過剰に反応していることになる。もちろん食べ物は自己ではない。自己ではないが、まるっきりの他者でもない気がする。調理をし、口にした食べ物からエネルギーを取り込むことができるように人間の体は進化してきた。

嫌なことも色々とあった。小学校に入ったばかりの頃は手の湿疹がひどくて手を繋ぎたくないと言われたり、教室でも机を離されたり。体育の授業では半パンを履かなければいけなくて、膝の後ろの湿疹を晒さなければならなかった。そういう嫌な出来事は記憶の片隅に追いやってしまっているけれど、思い出そうとすれば色々出てくる。外食は諦めなければならないことが多く、学年が上がって皆が「買い食い」しているのを自分だけ眺めていたり、旅行先での食べ物にも神経を使うことが多かったし、いつもおそるおそる食べていた。

だから、アトピーが「一生付き合っていかないといけないもの」という考えは小さい頃から自然とあった。制約は多いけれど、自分には普通のことだ。

入院もした。入院でよく覚えているのは無菌室のような部屋に2週間くらい入った時のことだ。確か食物アレルギー除去食のための入院で、だんだん食事が増えていった。とにかくご飯が少なくて、果物が数切れだけみたいな食事が数日続いたあと、太刀魚がでてきた。なぜ太刀魚を覚えているかと言うと毎日太刀魚しか出てこなかったからだ。点滴で栄養を入れてもらっていたから手の甲に針が刺さったままで、何日かに一度針の差し替えのために看護師さんが腕をいろいろといじった。食事の量が少ないことを心配した祖母がこっそり食べ物を差し入れて、病院の人に怒られたりもしていた(だからあれは関西の病院だった)。結局、5〜6kg痩せて退院した。その時は本当に身体が綺麗になって自分の身体とは思えないほどだったけれど、家に戻って1ヶ月くらいするとまた元に戻ってしまった。なんだよ意味ないじゃん、と思った。

中学生くらいになると、手の湿疹は綺麗になくなった。良くなるときは一瞬で、自分でも気がつかないうちに良くなっていることがある。でも、中学3年の終わりから高校1年にかけて一気に全身が悪化して、顔から首から一気にひどくなってしまった。滲出液が噴き出して、学校に行くのが嫌で仕方なかった。人生で一番酷かった時期だ。その時は白米をやめると途端に良くなった。越後製菓という会社がアレルゲンをカットしたご飯を売ってくれていて、それを白米の代替として食べていた。それ以降、ひどくなる時期を迎えては何かの穀類が合わなくなっており、それを止めると良くなる、みたいなことを繰り返している。結果、僕の今の食生活は穀物を食べないことが基本になってしまった。家に炊飯器はないし、パンも買わない。一定期間を空けるとアレルゲンは反応しなくなるけれど、もう怖くて食べられない、というのが実情に一番近い(旅行などちょっとした期間だったら食べるけど)。

そんなこんなで、今回の不調でも小麦を控えたり、コーヒーを控えたり、牛乳を控えたり、色々やっている。寝具の交換頻度を上げる、掃除をこまめにする、食事は野菜中心にする、動物性タンパクを食べ過ぎない、睡眠はたっぷり、お風呂の温度はぬるめ、同じものを食べ続けない、アルコールは飲まない。でも実際は守れたり守れなかったりだ。シリアスになり過ぎると嫌になるし、ある程度は許さないとやっていけない。アルコールは付き合いで飲む機会もあるし、好きな友人との機会だと避けたくない。生活と折り合いをつけながら自分の身体と付き合っていくのは結構難しい。

うまくいかない状態が続くと、医者のせいにしたり、誰かのせいにしたくなる。しまいには自分は食物アレルギーではないのではないかという考えまで浮かんでくる。「あなたの場合は食べ物よ」と言われて育ったきて、これまでの不調はすべて、一応のところ説明できていたと思う(それに食物アレルギー治療薬がてきめんに今でもよく効く)。でもそれは一つの仮説であって、実際の機序は全然違うものなのかもしれない。診断というのは一つのストーリーを与えられることだし、疾患名を受け入れることはそのストーリーを生きることで、僕はこのストーリーにコミットして生きているということだ。

自明に思っていたことが自明ではなくなってしまう状況は生活の足場をぐらつかせる。症状がひどいことよりも、原因がわからない方が何倍も辛い。アトピービジネスや、新興宗教が付け入る隙がここにある。彼らは水、衣類、洗剤と一つの原因を措定する。「悪いのは水です、水を変えれば劇的に良くなります」と。そんなことあるかいな、と思っていても、ある特殊な心的状況に置かれると人間にはそのストーリーをホンモノだと思ってしまうことも出てくる。でも、一つの原因で全体を説明するようなストーリーはだいたい場合に誤っているということも僕は知っている。

地道にやっていくしかない。いつもの結論だ。1日でよくなる魔法はないし、医者に神様はいない。誰も自分の身体を代わりに生きてはくれない。だから地道にやっていくしかない。騙し騙し、なんとかやり過ごしながら好転するのを待つ。食べ物を口に運んでは身体の反応を見る。何も起きないことに安堵する。

たも

たも

防音室に住んでいる。ヴィオラとピアノを弾いて、走って、泳ぎはじめました。

Reviewed by
田中 晶乃

別れる男に向けて「いいよな、私と別れれて。私は私と一生付き合っていかないといけないんだよ!」と言うセリフが今でも忘れられず時々思い出す。
生きている限り、自分と別れることはできないと書いていたのは、本谷有希子さん著書の『生きているだけで、愛。』という小説。

不安定な時に内側に入り込むこの言葉は、絶望のように感じた。
一生自分と付き合っていかないといけない。死ぬまで自分と別れることはできない。
私は私を支えきれない自覚があった。誰かに寄り掛かりたい。私の人生のこのどうしようもなさをなんとかしてくれ…誰かー!あー!と思っていた時期もあったし、それは一生続くのかと思うほど長かった。

自分の人生を生きるという意味では、事実その通りであって。
個性ともとれることでも、自分をどう動かすか向き合うのか、自分でこの人生を生きるしかないと考えが変わった(腹をくくった)のは、コロナ禍になってからのことだった。
見方が変わったことにより、考え方が変わったように思う。

だから、たもさんも…と言うほど、軽くは考えていない。
各々の辛さや戦いや悩みは、消えたと思ったら現れを繰り返し、続いていくのだろうと思う。
見方が変わったなんて書いたけど私も同じだ。
けど、そんな日々だけではないと思うのだ。

食べ物を食べて、身体の反応を見て、大丈夫だったという安堵は、自分の身体のことではあるが、未知の部分に入って安全地帯やオアシスを見つけた時のような気持ちなのではないか。

たもさんにとって、身体の安全地帯やオアシスが増えていくといいなと心から思っている。

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