入居者名・記事名・タグで
検索できます。

3F/長期滞在者&more

入居しました

長期滞在者

色々と書きたいなと思うことはあるのだけれど、いざキーボードを前にすると、書きたいと思っていたことが手からこぼれ落ちていくような気持ちになる。たくさん書きたいことがあったはずなのだが、頭がまとまらない。

以前に書いていた時期は、二十代後半になってようやく働き始めたばかりの頃で、長く過ごした横浜や東京都内の空気から離れてまた千葉に戻った頃だった。それまでの環境と職場の環境とのギャップに戸惑いながら過ごしていた時期だったと思う。(とても恥ずかしいから過去の文章は読み返したくなくて、千葉駅のドトールの二階でMacBook Airを叩いていたイメージだけが残っている)

きっと、ただの一塊の公務員となってしまって、自分は一体何者なのか、なぜ働いているのか、これでいいのか、みたいな問いが湧いては自分を刺激していた時期だった。だから、何かを書くことで変化に対して振り回されないようしっかりしがみつこうとしたのではなかったか。書くことは時間をピン留めすることだから。

あれから、おそらく5年か、6年か、7年が経ったんじゃないか。2016年とか、2017年だった気もする。色々なことが起きて、色々なことが変わった。母は亡くなったし、父は老いたし、仕事は相変わらず続けていて、毎朝走ってから出勤して、上と下に気を配りながら仕事をして、あまり残業もせず、家に帰るとご飯を食べる。リフォームして作った防音室で、小一時間ピアノを弾いて、お風呂に入る。そのあと、本を読める日には少し本を読む。けっこう、大きな変化があったように感じるけれど、大体は毎日同じことの繰り返しで、同じ繰り返しの毎日だとあっという間に月日が経ってしまう(時間の進み方は一直線じゃない)。小さな変化は、そのたびにピン留めしておかないと思い出すことが難しくなってしまう。

塵も積もれば、である。何が変わって何が変わっていないのかを確かめるために何か書いてみようかと思ったのだった。前回お世話になった小沼さんに連絡を取ってみたところ、快くこの場を借りて書くことを承諾していただいた。(まだ直接お会いしたことがなくて、いつかちゃんと直接お会いしたいなと思っています!そして締め切りを過ぎてしまってごめんなさい)

-----

突然だけど、本の話題から。

最近、と言ってもコロナで世間が騒がしくなった頃からだけど、地元の図書館のヘビーユーザーになっている。図書館大好き、図書館最高。ときどき図書館の職員が厄介なおじいさんに絡まれて対応しているのを見ては同情したりしている。なかなかしつこいおじいさんだから、図書館でも有名なんだろう。

図書館をよく使うようになってわかったのが、書店に平積みされる新刊で、図書館に(絶対入るだろうけど)まだ入っていない本を「新刊リクエスト」すると、入ってから予約をするよりも早く借りることができることだ。「あれー、まだ入ってないな」と思って新書をリクエストしたところ、予約待ちで3番目になっていて「こういう使い方をしている人がいる!」とわかった。それから何度か、集英社新書や岩波新書なんかでこういうことをしたり、その他リクエストをしたりとなかなかに楽しく使っている。

でもきっと、一人で20冊も30冊もリクエストを出していると、どこかのタイミングで何か言われるかもしれない。みんながみんなこういう使い方をしてしまうと、それもそれで困ったことになってしまう。ヨーイドン!で開店とともに走るのと、あらかじめ整理券を持っているかの違い。本来のリクエスト機能ではない制度上のバグみたいなものだから、こうやって積極的に使うのも考えものだ。

みんなは図書館使ってますか?最近はネットで個人ページが見れて返却期限を確認できたり、いつの間にか便利になっていて最高ですよ。

今年に入ってから読んだ本の中で、これは今年のたも國屋じんぶん大賞だな、と思っているのが東畑開人さんの『居るのはつらいよ』です。この本の中に、「今は個々人がそれぞれの物語を紡ぎ出すのが難しくなっている時代だ」という内容の記述があります。東畑さんは臨床心理士で『居るのはつらいよ』は沖縄のデイケアの施設で働き始めた頃の体験が記述されているんですが、現在開設されている東京のカウンセリングルームでクライアントから、”普段の実生活、職場や交友関係の中では語られることのない私的な物語”が開陳されて、その際に「こんなことまで話してもいいんですか?」と言われた、と。それくらい今の時代は、個人が私的な文脈にある物語が語られることが難しくなっている。そんな感じです。

さらに、これもたも國屋じんぶん本屋大賞第二位ですが『心はどこへ消えた?』の中で、東畑さんは今の時代を次のように書いています。

 大きな物語の終焉」や「これからは個人の時代だ」と言われた90~2000年代に比べて、今は確かに個人で生きる時代になったけれど、その分、中間共同体的なクッションが薄れてしまい、皆がそれぞれの小船に乗って生きるようになった。かつて、皆で一緒に進むことができた大きな船は無くなったけれど、そうしたら、さらに大きな力(剥き出しの資本主義)に個々人が直接曝されるようになってしまった。常にリスクに晒され、自己責任に帰される恐れに晒されながら生きる社会にこの20年で変わってしまった。個々人が内省して自分の物語を紡ぎ出すことができるのは、外の世界から守られて安心できる状態でなければ難しい。

つまり、我々は一人一人の物語を物語ることを失ったのだ=心はどこへ消えた? と(かなり雑ですが)こういう感じです。

何か日常を脅かすような事件や出来事が社会に起きた時も(Twitterで流れてきた内容だけれど)「この事件に対する”正しい”反応(感想)ってどういうものだろう?」とSNSを検索して「こういう風に感じるのが正解なのね」と内面化してしまっていて、肝心な自分の抱いた感想というものをどこかに追いやってしまっている。

みんなはどうだろう?そんなことないですか?私もそうやって自分の感想をどこかにやってしまっているなと思います。

ー ー ー ー ー

ブログ文化が廃れてしまった後で個人が物語るってどういうことだろう?(なぜこんなに難しいんだろう?)という問題意識を持っていたので、それにまつわる内容を三つ並べてみました。今回、こうして少し広く自分の知らない人たちへ開かれた場所を借りて(賃貸?)住まわせてもらえることになったので、定期的に戻ってきて考えてみたい内容です。うまくできるかどうかはわかりませんが…。

最初から書きすぎると続かなくなってしまいそうなので、今日はこれくらいにしておきます。

最近、新しい机を買いました。チーク材の小さめな机(50cm,100cm)で、これも新しい机の上で書きました。かなり気に入っています。長いあいだ父が昔に使っていた机を使っていたのですが、マンションの部屋には大きすぎるなと思いつつ、なかなか廃棄する踏ん切りがつかなかったところ、もう良いだろうと。

机って、車と同じように(私はほとんど車には乗りませんが)結構長い時間スパンで変えていくものだと思うので、その机ごとに固有のイメージがある気がします。「この机で高校生の時に毎晩ブログを更新してたな、パソコンはvaioで」みたいな。

次回はこのあたりの話から始めたいと思います。

たも

たも

防音室に住んでいる。ヴィオラとピアノを弾いて、走って、泳ぎはじめました。

Reviewed by
田中 晶乃

その人自身の目から見える生活や、出来事を読むのがとても好きだ。

あるあると頷いたり、なるほどねと知れることがあったり、書かれている光景が浮かび上がってもくる。
その人の呼吸や、生活の温度を感じれるから、好きなのだと思う。

たもさんの書く文章は、読んでいてとても心地いい。

暮らしが見えてくる。
図書館の様子も、新着の本も、新しく買ったテーブルも、そのテーブルに関する話も、vaioで書いてたブログも。

これから始まる長期な滞在で、たもさんの暮らしを覗かせてもらえるのが嬉しい。
どんな話が出てくるのだろうか。

アパートメントへようこそ、おかえりなさい。

トップへ戻る トップへ戻る トップへ戻る