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2F/当番ノート

Music From Memories 1

当番ノート 第26期

92年の同窓会で祖父は「SAY YES」を歌った。正確には歌ったかどうかわからなくて、カラオケの順番が回ってきたときに祖父が「おれはSAY YESを歌うぞ」と言い、大正6年生まれの同窓から「お前、そんな若い曲を歌うのか」とか「なんだその曲は知らないぞ」と反応された、という話を後日聞いただけだ。祖父の家に行った時に口ずさんでいるのを聴いたことは確かにあって、「愛には愛で~、っか」とややおどけた調子だった。祖父はチャゲアスとは言わずに「チャゲ、チャゲ」と指した。「チャゲ」という言葉には大正生まれにも充分伝わるコミカルな響きがあったに違いない。去年最後に介護施設を尋ねたときに口ずさんでいたのは藤山一郎の「夢淡き東京」だった。

高3の頃、後輩の子とオールナイトのクラブイベントに行った。初めて会う知らない人と話しをするのがとても新鮮で面白かった。その人は「僕が高校のときなんてBOOWY聴いてたよ」と言って周りから笑いを取っていた。この頃はなんとなくイベントで邦楽がかかるのは許されない空気があったように思う。この日のイベントも日本のものはかからなかった。でもその許されない空気は、居心地の悪いものではなかった。

スキャットマンの辛さというのは初めて見たときから何となく予感はしていた。「ああ見えて歌詞には真面目で前向きなメッセージが込められている」とか聞いた時点で、もう。ダウンタウンの音楽番組に出てきたとき、突然カメラに向かって「おかあさーん、見てる?」と英語で呼びかけた。思い出しただけで辛い話だ。この時ほどダウンタウンが司会で良かったと思ったときは無い。森口博子が司会だったらどんなリアクションをしただろう。

実はいいことを歌っている、という捉えかたで買ったシングルがとんねるずの「情けねえ」。小4だったから長渕剛のパロディという視点は持ち得るはずもなく、とんねるずだけど真面目なこと歌っているからそこがいいと言い聞かせていた。「真面目なこと」を良いものとして把握できる、ということに大人びた魅力を感じていたのだ。スキャットマンも5歳若かったら買っていたのか。

小澤征爾と家の人は付き合いがあり、子どもの頃から彼は身近なスターだった。ある時弟が独自に「おざわしょうじ」というキャラクターを考案し、架空のピアノレッスンを施してくれた。弟は想像上の無造作な髪を振り乱し、音楽家らしく気難しい仕方でぼくに接した。だんだん設定が込み入ってくるとその細部で破綻が生じ、それを指摘することで険悪なムードが漂い、レッスンは打ち切られた。「おざわしょうじ」は作曲もした。低音部の白鍵をガーンガーンと鳴らす「戦争」という曲。

中学生のときに、すでに解散してしまったバンドの曲を3曲ずつ収めたテープを作った。この3曲と言うのがなかなかクセモノで、ヒット曲、アルバム名曲に、デビュー当時からのファンの声も考慮しながらといろいろ考えていくと、例えばTMネットワークの場合、いちばん売れた「Love Train」はいれるべきか非常に迷うラインなのである。売れたからといっていちばん記憶にのこるというわけではない、しかも80年代から90年代というのは、純粋な枚数と相対的な順位が食い違う時期でもあって、うんうん唸りながら休みを丸々使ってこの作業をしたのだった。あの頃は時間があった。レベッカ、バービーボーイズ、果てにはフリッパーズ・ギターといろいろ詰め込んでいく中、ブルーハーツだけはこうやって聴くものじゃないなというのは、ファンでなくてもわかった。

マイ・トーキョー。期末テストが終わった午後は決まって池袋西武の屋上でたむろした。次にカラオケに行くか、楽器屋に行くか、何時間もかけて決める。平日の早い午後はこの場所に来る人は少ないので、かなり勝手なことをする。煙草も吸ったし、大声を出したり、金網によじ登ったり…未だにデパートの屋上に行くと、金網によじ登って、行ける範囲での、最も高い場所を目指してしまうのだ。ところで当時の池袋西武の階下に、リブロのぽえむ・ぱろうるや、「ミュージック・フォー・エアポート」のかかるアールヴィヴァンがあったことを当時の自分は知らない。歴史的な見地では、その日ぼくらがたむろした場所が東京であった意味は無い。

友達がこの間、高校の頃は町田のタワーレコードで何時間も試聴したものだと話していて、ところで自分の高校時代のタワーレコードは池袋店だった。竹山くんは文集に「このジャズのグルーヴに、ずっと酔いしれていたい」と書くほどで、お店に行くとクラムボンの出たばかりの1枚目を取り、「彼らのグルーヴにはジャズがあるんだ」と教えてくれた。少し試聴してみてとにかく思ったのは生音中心ということで、電子音中心が自分の好きな音楽、と信じて疑わない当時の自分は早々に試聴を切り上げ、彼に同じく出たばかりだったポリシックスを勧めた。何もかもが平行線に終わった。竹山くんと最後に会ったのは10年くらい前になる。音楽の話を振ると「今はもうクラシックしか聴かない」と言った。

某バンドがやっていた深夜ラジオにハガキを送ったら読んでくれた。彼らのアルバムがとても素晴らしかったこと、特に後半の流れにチキン肌がたったと書いたら「チキン肌って何?…あぁ、鳥肌のことか」「この子も家庭の事情があまりよくなさそうだね」…当たっていた。流石だと思った。

授業中、となりのクラスからはとにかくリコーダーの音が聞こえてきた。担任の先生が音楽が特に好きな人だったようで、他の教科をやらずに音楽ばかりやらせていたのだ。教科書には載っていないその当時流行っていたランバダの曲がリコーダーで聞こえてきた時は、となりのクラスに嫉妬した。羨ましかった。ランバダを吹きたかった。学期末、となりのクラスは音楽ばかりをやっていたおかげで他の教科の課題が殆ど終わっていないということで騒ぎになった。

anouta

anouta

友人の集まりから発展し、2012年ごろより年1回ペースで、音楽をテーマとするZINEの作成をしているグループです。主なメンバーは本業が報道職の若山と、本業がデザイナーの宮崎。

Reviewed by
武村貴世子

日々の生活の中でふと聴こえてきた音楽から、記憶が呼び起こされる。
音楽と記憶の密な関係。それぞれの曲に寄り添う物語はくっきりとその景色を描く。

自分にもある音楽の思い出を探したくなる。

最後のリコーダーとランバダ。笑わずにはいられない。そして、もう一度最初から読みたくなる。
音のリズムのように軽快に読み進めてしまうこの感じが、楽しい。

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