アカデミー賞各賞を総なめ、惜しくも作品賞を逃しつつも多くの人々から高い評価を得た『ラ・ラ・ランド』。私も公開の次の日に映画館へ観に行き、その作品の完成度と音楽の与える力を身を以て感じる事が出来た。とにかく隅から隅までロマンチックで、でも最後の最後に下す主人公の決意はとてもリアルで、自分自身にも重ねて共感する部分が大きかった。そしてとにかく、エマ・ストーンが可愛すぎる。表情豊かで、キュートとは彼女の為にある言葉。ズルすぎるくらい愛おしい。
劇中ではライアン・ゴズリング演じるjazzピアニストのセブが、ふとした事で出会ったミア(エマ・ストーン)が「jazzは嫌い」という事に対し、生の演奏が観れるクラブへと彼女を連れて行くというシーンがある。セブは生演奏を目の前に、演奏を実際に見る事で感じる演奏者の情熱や、各楽器の立ち位置をアツく語り、jazzの演奏が観れる自身の店を自分の街に作る事が夢だとミアに打ち明ける。このシーンのセブが言うように、jazzだけに限らず生の演奏を見るということは、想像以上に多くの情報が見ている側に入ってくる。
つい先日、ふとしたキッカケであの国民的rockバンド、Mr.Childrenのライブを見る機会があった。私も高校生の頃くらいから聞いていたし名曲も多くて、”ファン”と呼べるほどではないが懐かしさを感じつつライブを楽しむことが出来た。それぞれのバンドのフロントマンをつとめるヴォーカルはやっぱりどんな時もバンドの顔になる。ミスチルも然り。ヴォーカルの桜井さんがほぼ全て作詞作曲しており、独特な歌い方とあの優しい笑顔で歌われる多くのハートフルソングたち。むしろ、ミスチルこそヴォーカルの桜井さんがもっているバンドと言っても過言ではない、というくらいのイメージがあった。しかし、実際に演奏を見た時、そのイメージはがらっと変わった。ヴォーカルの後ろに位置するドラマーの存在感に圧倒されたのだった。とにかく上手い。本当に上手い。なんてプロの人に言ったら怒られるだろうけど、あえて言わせて欲しいほどに感動した。私が思う演奏の「上手い」は、アンサンブルの中で他の楽器を邪魔せず、かつその人の個性やテクニックを聞かせることができるという意味を持って使っている。もっと言ってしまうと、曲の軸や流れを引っ張って先頭に立っているのが、ドラマーの彼なのだと感じた。これは音源だけを聞く限りでは気づかなかった。もちろんドラムとベースが基本的にはリズム隊として演奏の基盤を作るという楽器自身の立ち位置もあるとは思うが、それ以上に先陣を切る彼のドラムが前に出ていた演奏だったと感じる。
とここで、「ドラマーの彼」なんて表現はやめて(そもそもど偉いレベルで先輩ですごめんなさい)、wikipediaを開くことにしよう。[ミスチル ドラマー]検索…名前は鈴木英哉(すずきひでや)。愛称はJEN。Mr.Childrenのドラマー、コーラス、リーダー・・・ここで納得した。リーダーじゃないか。もしかしたら名ばかりの”リーダー”かもしれないが、なんとなく納得する理由の一つとなった。
先ほどの「楽器自身の立ち位置」というのはある程度、皆の共通認識として決まっている部分はある。例えばrockやpopsのバンド形態だとベース・ドラムが一番下の基盤を作り、その上にギターや鍵盤などが色をつけて世界観(ムード)を作る。一番前にメッセージを伝えるヴォーカルがいる。ある意味、「決められた役割」というものがあるのは事実だが、ステージでの演奏を実際に目で見て感じると、それらを超えた人間模様が見えてくる。それが何より、生演奏の醍醐味であるし、音楽を楽しむ上で一番の極みだと私は感じている。それは演奏する側としても、見る(聞く)側としても。
『ラ・ラ・ランド』でのワンシーンでミアは、ライブバーから生演奏の音楽が聞こえふらっと店に入る。そこで出会う音楽や人々、全てその先のドラマに繋がっていく。日本にもそんなお店があったら、あんなイケメンピアニストにふらりと出会えるのか…というのは夢のまた夢だけど、私たちの日常の中でも、それくらいの気軽さで生演奏を身近に感じられたら、人生はもっともっと豊かになるはず。映画のヒット同様、”生演奏を見に行く”という一つのムーブメントがもっと多くの人へと広がりますようにと、陰ながら私も夢見ている。自身の地位や名誉より、jazzをもっと多くの人に広めたいという夢を実現することを選んだセブのように。