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2F/当番ノート

よれよれ観たもん放浪記(9)関係のないあなたへ

当番ノート 第40期

正直に申し上げます。わたくし、お部屋をじょうずに片付けられません。
部屋は人となりを表すと申しますから、誠に遺憾ながら人となりとやらがトッチラカリのシッチャカメッチャカであることは、日々につけ痛感しておるところです。
こんまり先生にお世話になろうとは一度ならず思いました。ときめくか、ときめかざるか、それが問題ですよね。ええ仰ることはわかります。しかしながら生まれてこのかた整ったお部屋で暮らしたためしがないもんで、自分でも手に負えません。
いや、言い訳はすまい。すみません、これを書き終わった週末に、すぐ大掃除やります。やりますとも。

閑話休題。そんな小汚い部屋でも一応、ここには大事なものしか置かないぞと決めている場所がある。
そこに置いているもの。おみやげでもらった磁器の小さな置物。大きい松ぼっくり。ピナ・バウシュの写真集。革命家こと森陽里ちゃんからもらった年賀状。それと、絵が3点。
そのうち1つが、三毛あんりさんという日本画家の作品だ。

あんりさんとは2011年にpixiv&カイカイキキ主催の新年会で初めて会った。
京都の美術好きな若い人たちがバスに揺られて東京を物見遊山し、東京の美術好きな若い人たちと合流して朝までおしゃべりするというような企画で、ほとんど初対面に近い人たちが集まって元麻布かどこかのギャラリーで一晩を過ごした。
ギャラリーには美術だとか芸術だとかお絵描きだとかが大好きな人たちがひしめきあっていた。めいめいが自分たちの大好きなもの、信じているものに誇りを持っていたいと強く願っているのがわかる。会場には思いの丈を交わし合いたいという熱気がぎゅうぎゅうに詰まっていた。

ギャラリーの壁面の一角がお絵かきコーナーになっていて、たくさんの人がたわむれに絵を描いている。
そのなかで、ひときわ大きな絵をじっと描いている女性がいた。
描いているキャラクターは彼女と同じくらいか少し大きめの背丈。ショートカットで、はにかんだような顔をしていて、短いデニムスカートを履いている。
手を動かしている間、彼女は誰とも喋らなかった。こんなに盛り上がっている会場で、そこだけ人の気配がない森みたいだった。
ようやく絵が完成したかというとき、彼女はキャラクターの左上に「私の好きな男の子」とはっきりした字で書いた。てっきり女の子を描いているのかと思って見ていたからびっくりして、話しかけるタイミングを失う。
彼女は何事もなかったかのようにふわっとその場を立ち去り、熱帯のなかに消えてしまった。
それが、あんりさんとの出会い。
以来ずっと、折に触れて彼女の作品を観ている。

anri
関係ない人
2015.2 1620 × 1120 mm
パネル 紙 胡粉 岩絵具 墨 金泥

この絵は2015年にShonandai MY galleryで開催された個展の表題作。
あんりさんの作風が、黒から白に変わった最初の展覧会だった。
多摩美術大学学部生時代の卒業制作は、黒い服に身を包み、うつろな目で佇んでいる長い黒髪の女性。背景には幽霊のような顔が壁のようにびっしりと並んでいて、その両目の部分には「愛」だのなんだの、強い意味合いをもった文字が書かれている。画面全体が見ること、見ることによって何者かと「みなす」ことの暴力性に対して無言で抗議しているような。
自分の背丈よりも大きく感じるその絵は、自意識を結晶みたいに固く鋭くした人(とりわけ私たち女性)にとって「もしかして自分のことを描いてくれているのかもしれない」と思うに十分な切実さをもっていた。だけど同時に、そう簡単に自分を重ねて分かった気になってくれるな、と睨み制されてもいる。否定と肯定、包摂と拒絶がいっしょくたになって突き刺さる。

ところがある時を境に彼女の作品からは黒い背景が消え、美しくて気持ちのいい線を追求したものが多くなった。そのシリーズがまとまって展示されたのが、この個展だった。
何より大きな変化だったのが、作中に「わたし」でも「あなた」でもない、3人目が現れたこと。3人は誰かを睨むでも告発するでもなく、互いに静かに目配せをしあっている。
この作品には、「私」を描いた1人だけの作品にも、あなた/わたし・見る/見られるという差し迫った二者関係を扱った作品の中にもあり得ない、不思議な余白が生まれていた。

しばらく絵の前で立ちすくんでいると、専門学生だか大学生だか、小柄でかわいらしい女の子がボーイフレンドらしき人と一緒にふらりとギャラリーに入ってきた。
ゆっくりと展示を見た後あんりさんに、twitterで絵を知って、今日初めて実物を観に来たんですと笑う。(私の記憶では、手紙を渡していたような気がする。)
その子が、展示会場の一番奥に掛けられていた「関係ない人」の前でにこにこしながら、こんなことを言った。

この作品好きです。
あ、「関係ない人」っていうんだー。そっかあ。
じゃあ、私はどの子と関係できるかなあ。

このときのことは忘れられない。
「関係ない人」という言葉にはどこか無表情で冷たい印象があるけれど、人はこんな風にかろやかな手つきで、関係ない人とかかわりを結ぼうとすることができるのか。あんりさんのかつての作品たちとは少し違う、柔らかなつながりの可能性が開かれた気がして、なんだかたまらない気持ちになった。
たしかあんりさんとはそのとき、関係ない人たちとつながるよすがを「共感」というのではないか、みたいな話をしたと思う。それと、共感をつなぐために作品が空っぽの器になるという手もあるかも、という話も。

ちなみにこの展覧会以降、あんりさんは「自画像」ではなく「肖像画」の制作にきわめて意欲的に取り組んでいる。

今私の部屋に飾ってある作品は、「関係ない人」と同じく2015年に制作されたもの。
描かれた女性は長い首をぐいと後ろへひねり、こちらへ目を向けてくれそうにない。背景は白く、見つめている先に何があるのかもわからない。ただその頰はほのかに明るく、光が差しているように見える。
私と絵の中の彼女とが見つめあうことはこれから先もないけれど、それでも向いているのは同じ光。
否定でも肯定でもない、拒絶でも包摂でもないこんな形で、私たちは関わることができる。
なんてことを、ちらかった部屋でときどきぼんやり思う。

*_*_*_*_*_*
さて2ヶ月、へちまみたいな脳みそを振り絞って書いてきましたが、アパートメントでの連載はこれにて終了。
言葉足りないことが多く歯がゆさも大いに残っておりますが、ともあれ読んでいただいた方、感謝してもしきれません。ありがとうございました。
次に会うときにはお礼しますね。美味しい酒と肴といっしょに。

kie_oku

kie_oku

美術や映画から観てかんがえること

Reviewed by
柊 有花

人と関係するということは、おたがいを見つめ合うことだけではない。同じ何かを見ることでうまれる関わりもある。それはkieさんの連載そのものだった、と思う。
毎回、新たな関わりを提示してくれる、すてきな連載だった。おつかれさまでした!

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