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2F/当番ノート

「思う」の不思議

当番ノート 第49期

あたりまえがあたりまえになったのって、いつからだった?

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ふと、すごくびっくりした。

「心のなかで何かを思ったり考えたりしてるとき、内側で話している声は、どこから聞こえてくるんだろう」

初めてこのことを不思議に思ったのは、たしか幼稚園生くらいの頃だったと思う。

「ねえ、鹿ちゃんはしゃべってないのに、鹿ちゃんにだけ鹿ちゃんの声が聞こえるのは、なんで?」

「それはね、鹿ちゃんが心のなかで『思ってる』ってことなんだよ」

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心のなかで、思ってる。よく考えたらすごく不思議だ。「思う」はどこからやってくるのか。人はどうして「思う」のか。「思う」は自分のなかの、どこでどうおこなわれているのか。誰が初めに「思う」が自らのなかにあることに気づいたのか。「わたしは自分をこんな人間だと思っている」と「思う」には、「思っている」自分の外側に観察する自分がいなくてはならないけれど、では、外側にいて「思っている」を「観察」している「わたし」とは誰なのか。

「思う」を中心に広がる疑問は、尽きることがない。なので、いまここでは、とても基本的なひとつだけを取り上げることにしよう。

「思う」とは、いったいどういうことなのか。

ここでいう「思う」とは、「明日は会社に行きたくない」とか「きっと晴れるだろう」とか、そういう欲求や予想のようなものだけではなく、たとえば「目の前におじいさんがいる」とか「月曜日の次は火曜日だ」といった、いわば認識とか常識とされていることも含む。

なぜなら、目の前の人が「おじいさん」であるのは、それを見る人が目の前のものを「男性」の「年老いた人」であると「思う」から「おじいさん」が現れるのであり、月曜の次に火曜がくるのは「月曜の次は火曜にしよう」という人が作った「思い込み」が成立しているに他ならないからだ。すべての認識は「思う」に従い、常識と呼ばれる一切は、実はすべての人が思い込みの足並みをそろえようという合意に他ならない。

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個人の「思う」は、どこまでも個人のなかに閉じている。その人以外の誰にも、決してその人の「思う」がわからない。その意味で、人は生まれてから死ぬまで箱のなかに閉じ込められているようなものと言える。閉じ込められた「ここ」から見える、聞こえる景色はすべて「思われたもの」の集合なのだ。

これをもう少し広げて考えてみると、自分が見て、聞いているものはすべて「思われたもの」であることがわかる。ほかならぬ、自分自身によって。

そして、各人の「思う」が寄り集まってできているのが、「いま、ここ」の自分の外側すべてではなかろうか。世間とか、社会とか、国とか、世界とか、そういう大きなものも、それがそのようにしてあるのは、 たどってみればすべてが「思われたもの」でしかないとわかってくる。

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40階建てビルの屋上の、フェンスを越えたふちに立っている。「さあ、跳べ」と言われる。跳べるわけがない、と思う。けれどこれは誤りで、一歩踏み出せば間違いなく跳ぶことはできるのだ。では、なぜ「跳べない」か。そこには、そこに跳んだ結果の予見と、「死にたくない」という思いがある。

ここにも「思う」の不思議が隠れている。できる、できない、だけでなく、これがこうだ、ああだ、というすべてについて。どこからどこまでが「思われた」ものであるか、正確に理解するのは非常にむずかしい。わたしたちは、どこまでも「思われたもの」のなかを生きてきている。ある、ないすらも、「思う」から始まっていたことに、気づくのではなかろうか。

物質と思い込みとでできている世界。 さて、わたしたちが「ある」として当たり前のように従っているものの正体や、いかに。「ほんとうのこと」は、どこに?

「思う」は、ただ心のなかで自分にだけ聞こえる声でしゃべること、ではない。それは、いまここに生きている自分が自分であるということを含め、すべてを作り出す始まりの現象ではないか。

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そういえば、「思ってもいないことを言う」なんて言い回しがあるけれど、あれは不正確ではなかろうか。すべての言葉は「思う」がなければ始まらず、「思ってもいないこと」は文字通り「思われていないこと」なので、そもそも言葉になりえない。

つまり、この言い回しにおける「思ってもいないこと」とは明らかに「思っていること」であって、それは「本心とは違うけれど、相手にはこう言った方が良いと思ったこと」なのだ。

ということは、人が「思う」ことは、常に自分にとって正直なことであり、言い換えれば、自分にとってそう思うことが「良い」ことしか思っていない、ということになる。

少しややこしいので、身近な具体例で考えてみよう。

友達から「次の休みに遊園地に遊びに行こう」と誘われたとする。自分は心のなかで「混んでいて落ち着けないし、次の休みはゆっくり本を読みたいから行きたくないな」と思った。

この状況において「自分にとって」遊園地に行くというのは「悪い」ことだ。なぜなら、「遊園地に行く」ということが、「行きたくない」という自分の気持ちに反しているから。その人にとって「遊園地に行かない」ことが「良い」ことになる。

「良い」とはつまり、自分の気持ちや感じ方に対して正直であることで、その意味で、心のなかで起こる「思う」は、常に「良い」ことでしかあり得ないはずなのだ。

けれども、こんなことを言ったらすぐにこう言い返されそうだ。「自分は自分の〇〇なところが嫌で仕方なく、心底直したいと思っている。これは自分にとって“良い”ことではない」とか、「嫌なヤツのことを嫌なヤツだって思ってしまうことも“良い”ことだと言えるのか?」とか。

よく考えてみてほしい。「自分のこういうところが嫌」「あいつや嫌なヤツだ」と思っている「そのこと自体」を、あなたはほんとうに「嫌」だと思っていただろうか。自分のことを嫌ったり、他人を憎んだりすることによって、どこかしら慰められたり、救われたりするような心地が、まったくないと言えるだろうか。

思い込むことで避けたい何かがある、と、どこかで知っている。けれどもその「避けたい何か」すら、実は「思い込まれたもの」であったとしたら?

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あたりまえに見過ごされることの不思議をひとつひとつ拾い上げていけば、この冬が明ける頃には、まったく別の見え方に辿りつけるのではないか。そんな思いで、アパートメント連載を再びはじめさせていただくことにしました。どうぞよろしくお願いします。

Reviewed by
haru

物質と思い込みとでできている世界。果たして私たちの「思う」はどこにあるのでしょうか。当たり前のことを当たり前と見過ごさない、そんな世界が始まります。楽しみにさせて頂きます。

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