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2F/当番ノート

#9 あの子のはなし

当番ノート 第51期

最後に話すのは、あの子のはなし。

毎朝、8時半には家を出て行くし、夜は早めに帰ってきて、帰ったらシャッターを開ける。
洗濯物は大胆に干しているけど、下着が干されているのはみたことがない。

彼氏はそんなに背が高くないけどおしゃれな人で、ちょっと長髪。
私が引っ越してきてから何度か見かけているから、誠実に3年は付き合っているんだろう。

部屋で騒いだり、うるさくすることもないけど、たまに小さな話し声や笑い声が聞こえてきて、
私が部屋を出た数秒前に出たあの子が、彼氏と仲良く手をつないで歩いている後ろ姿を見かけたときもあった。

あなたは私と同じ年くらい? それよりも年下?

私はあの子の顔をみたことがない。

どこに引っ越したのかも名前も年齢もわからないけど、
わたしの隣に住んでいたあの子の話をしようと思う。


あの子は朝が強くて、会社に遅刻したことは一度もない。
ギリギリまで寝ているけど、目覚ましですんなり起きられるから得していると思う。

朝ごはんを食べたら食器を洗って今日も職場へ向かう。

仕事に疲れて帰ってくると、隣の家はまだ暗いから
今日もどこかで飲み歩いているか仕事をしているのか。

隣の人は真夜中に誰かと帰ってきて、部屋に入るまで廊下で話しながら歩いている音が
寝る間際の睡眠を邪魔することがあるから迷惑だ、とか思わせていたら申し訳ない。

週末は、あの子が彼氏の家に行くか、彼氏があの子の家に来るか。
用心深いあの子がドアの内側のロックをかけていて、
合鍵を持った彼氏が家に入れず立ち往生させられていたこともあったっけ。

土曜日の昼時に彼氏がやってきて、つくっておいたカレーを一緒に食べながら
だらだらとテレビをみて過ごした。
お腹がいっぱいになると、日がよく入る部屋だから、眠くなってそのまま一緒に昼寝をして。
さっとシャワーを浴びたら夜は映画を観に出かけて、よく行く渋谷の焼鳥屋でビールを飲む。

帰りは酔い覚ましに、ちょっと離れた駅で降りながらも、
途中のコンビニで彼はチューハイを、あの子はほろよいを買って、夜道を散歩しながら歩いて帰ってきた。
夜の散歩は酔っ払いながら、大学時代のサークルの先輩だった彼氏に
「先輩、好きです!」なんて言ってふざけ合ったりもした。

サークル仲間の結婚式に一緒に行くたびに「次はお前たちだな」と言われたけど、
彼は「俺たちはまだだから」と返事をしていて、「今日は別々に帰る!」と、ちょっと拗ねた日もあったりして。
それでも彼に単刀直入に結婚の話をすると、彼に答えを出されるのが怖くて聞けなかった。

友達に相談して、終電後まで話しを聞いてもらったり、もやもやして深夜に夜道を走りに出た時もあった。
でも、帰って来ると真っ暗な住宅街で隣の家の明かりだけがついていて、
こういう時はちょっとだけ、隣の人が起きていることが心の安定剤になったりもする。

世間ではアラサーと呼ばれる歳になった今年、自粛期間で会えない時間が続いた後、久しぶりに彼が家に来た。
いつも通りにカレーを食べ終わり食器を洗い終わって、アイスを持ってリビングに戻ると、
彼がそろそろ結婚を前提に同棲をしよう、と話してくれた時はびっくりしすぎて泣いてしまった。
嬉しさのあまり涙が止まらないから、いつの間にかアイスがどろどろに溶けてしまって、
なぜだかそれが面白くてそのあと一緒に笑った。

引っ越しの準備でいらなくなった物を大きなゴミ袋に詰め、早朝ゴミを出しに
アパートの玄関を出ると、朝帰りらしい女性と鉢合わせた。

「「あ、すいません」」

直感で、隣の家に住んでいる人だとわかった。
うつむきがちに挨拶をされたけど、この時間にボサボサの髪の毛で家に帰って来るなら
隣の人だろう。彼に「相変わらず隣の人は朝帰りだったよ」と報告しておこう。

真っさらになった部屋の鍵を閉める前、ベタに「お世話になりました」と頭を下げて、
不安で寝られなかったこと、仕事でムカついて帰って来てから泣いたこと、彼と電話をしながら寝落ちしたこと
色んなことが走馬灯のように駆け巡った。

次の部屋の思い出は、彼との思い出ばかりになることに嬉しさとちょっとの不安を覚えながらも
玄関のドアを閉めた。


この街に来て3年が過ぎ、たくさんの知っているようで知らない人と出会えた。
部屋にいることが少なくいつも飲み歩いている私は、いつの間にか知り合いが増えた気持ちになっていた。

でも、あの子の引っ越しで、私もそろそろこの部屋を寿退社できるように
彼女のような生活を送らねばと危機感を感じさせてくれた。

次は、新しい街で私が知っているようで知らない人と出会えた時、
また、あなたが知らない人の物語を読んでくれたら嬉しいです。

全9回どうも、お世話になりました。

ばりこ

ばりこ

日々、コンクリートジャングルをどう乗り越えて快適な暮らしをつくれるか考えながら生きていているOLです。

Reviewed by
haikei

人間は音に敏感な生き物だと思う。
全くの無音では生きられないとも言われている。

今回の物語はまさに”音”についての物語。あの子が鳴らす音。
いつの間にかその音の機微・変化に敏感になり、安心すら覚える。

そして、その音がなくなった今、その音を鳴らすのは他でもない自分自身なのかもしれない。

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