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2F/当番ノート

ここは安全で安心な場所

当番ノート 第51期

この連載が始まった頃はまだ、陽気のいい日が続いていたと思う。緊急事態宣言が解除されたばかりで、まだまだ不安な日々が続いていた。「今日の感染者は何人なんだろう」「明日はどうなるだろう」まずは目の前にある不安に目がいってしまって、二ヶ月先のことなんか考えられやしなかった。

あれから二ヶ月経ったけれど、状況はあまり変わっていないし、梅雨もまだ明けていない(七月二十九日現在)。自分の生活の些細な部分に目を向けても、思い通りにいったりいかなかったり。「それもまた人生なり」そんな言葉が聞こえてきそうだ。

家の外に一歩出ると、それが日常になりつつある非日常が続いていて、店内のあちこちに貼られたソーシャル・ディスタンスの張り紙、レジ前の床に等間隔に貼られたテープ、レジに設置されたビニールシートの隔たり。当たり前じゃなかったことが当たり前になっていく。そして、元あった生活を忘れてしまいそうになっている。忘れてしまうことは怖い。

バブルを知る大人が「昔はすごかったんだよ」と口を揃えて言うように、私ももう少し歳を取ったら子どもたちに年寄りくさくそう言ってしまうのだろうか。それはなんだか嫌だな。

気づけば、このアパートメントにエッセイを書くことも、私にとっては当たり前のことになっていた。日々の変化に敏感でいたいと思って、あえて大枠の構成は設定せず、毎週思ったことも好きなように書いていた。気分任せなので、気分が乗らなければ一言も浮かばなくなってしまうし、配信される頃には「何を書いたんだっけ?」と忘れていることもしばしば。そんなゆるりとした連載も、最終回を迎えた。

「まだまだ先のこと」と思っていたけれど、あっという間に時がきてしまったことをなかなか受け入れられない。どうしても書く気持ちになれなかった。掃除をしたり、洗濯をしたりして、延し延しやってきたけれど、それももうできなくなってしまった。

最後らしく、バシッとかっこいいことでも書ければいいんだけれど、そういうこともできなそうだから、本音を書こう。正直、さみしい。

ずっとずっとやりたかった一人暮らしを始めたタイミングで、このアパートメントに入居することになった。初めての一人暮らしはもう二度と来ないから、今の気持ちをどこかに残しておきたいと思った。そんな中で思いついたのが、ウェブマガジン「アパートメント」。いつか、私も入居してみたいなあと思っていたけれど、まだまだ劣等感だらけの私は、まさか自分が住人になろうだなんて、おこがましいにもほどがあると思っていた。だけど、今書いておかなかったことを後悔する方がよっぽど怖くて、以前、アパートメントで当番ノートを書いていた友人に「私も書きたい」と相談したのだった。被害妄想的に「あなたにはまだ早いよ」と言われるんじゃないかと想像しながら返事を待っていると、「おー!わかりました。いいですね」と送られてきた。それはそれは勇気がいることだったので、返事がきた途端に力が一気に抜けたのを覚えている。

そこから、あれよあれよと話が進み、あっという間に私の部屋が用意された。管理人さんはあたたかく「ようこそ!」と迎えてくれた。

二ヶ月間で、自分自身が大きな成長を遂げたわけではない。むしろこれからだと思っている。ただ、地続きの日々の中でご飯と時間を平らげて、この八畳の部屋の中にいれば、雨や雷やネット上に溢れる怖い思想や暴力から逃れることができるから、安全な場所で安心してここにいていいと思える。そして、この部屋を訪れる人にとっても、安心を感じてもらえる場所であったらいいなと思う。

今、特別に思えていることも、それが当たり前になってしまいそうになったら、このアパートメントに立ち寄って、今のこの思いを読み返そうと思う。

ある日、友人が以前の私のように家に安心のない生活をしているという友人のHさんにこの連載の記事を教えたんだ、と教えてくれた。私はその人には会ったことはないけれど、最後に、Hさんに向けて書きたいと思う。

Hさんへ

初めまして。会ったことがない人に手紙を書くのは人生で二度目です。

友人から、Hさんは文章を読むことが苦手だと聞きました。なるべく読みやすい文章になるよう心がけますが、Hさんのペースで読んでもらえたら嬉しいです。

私は一人暮らしを始める数ヶ月前、人生初の家出をしました。たった一晩でしたが、私は家から逃れるように、恵比寿のカプセルホテルで一夜を過ごしました。寝返りをするのがやっとな狭い空間にいるはずなのに、普段に増して脳に酸素が行き渡っているような、とても衝撃的な経験をしました。不安も確かにあったけれど、その日はとてもぐっすり眠ることができました。今となっては家出を一つの成功体験として、なかなか踏ん切りがつかなかった一人暮らしを、ようやく実行に移すことができたのだと思います。

「一人暮らしした方がいいよ」

そう言ってくれる優しい人が、あなたの周りにもいるかもしれませんね。他人から言われなくても、いろんなものから離れた方がいいことは、とうの昔にわかり切っていることですよね。

私は、一人暮らしをして本当によかったと思っています。初めのうちは、うまくいかないこともありますが、それも愛おしく感じることができます。頑張れるときは頑張っていたらいいし、体調が悪いときは、サボったっていいんです。全部、自分に合ったオーダーメイドな生活を組み合わせることができるのが、一人暮らしの魅力だと思います。

一人だからできることがたくさんありました。最近、プロジェクター を買った私は、湯船に浸かりながら、お風呂場の壁に投影したスラムダンクを、アイスを食べながら観るのがマイブームです。そういう「悪いこと」もじゃんじゃんやってみてください。最高です。

生活は意外となんとかなります。時々は自分にご褒美をあげて甘やかしてあげてください。とても生活が潤います。

物件選び、内見、家具家電探し……どのプロセスも、全部自分で選んでいいんです。自分が好きなものを全部集めていいんです。そうすると、自ずと安心できる部屋になっていくと思います。

Hさんの一人暮らし、私はとても楽しみにしています。ちょっと勇気を出せば、あとはそのままの勢いで、うまいこと波に乗ることができるでしょう。Hさんならきっと大丈夫だと、そんな予感しかしません。

Hさんの新生活が、全部大丈夫になりますようにと、私の安心安全な一室から、密かに願っています。

神原由佳

神原由佳

1993年生まれ。
社会福祉士、精神保健福祉士。
普段は障害者施設で世話人をしています。
納得を見つけていきたいと思っています。
にんげんがだいすき。

Reviewed by
早間 果実

安全は形あるもので、安心は形のないもの。
どちらのほうが、という話ではなくて、どっちも大事なんだと思います。
物理的におびやかされず、精神的に安らげる場所。
誰もが、そういう部屋を必ずひとつは持てることを、願わずにはいられません。

「アパートメント」は物理の空間ではないけれど、ちょっとだけ「安全」があるのかもしれない。
神原さんの2カ月間の滞在を見ていて、そう感じました。
神原さんにとって、ここが少しずつ居場所になって、のびのびと取り止めもなく過ごして。
書くことで、現実の意味づけがほんの少し色づいて。
それで、いま一人暮らしをしている部屋との関係性が、ちょっと変わったかもしれない。
憶測です。
でも、そうやって安心と安全は、行ったり来たり、揺らぎながらたまに重なるのかも。
たとえばネットカフェから「アパートメント」に入ったら、そこは一時的に安全地帯になるかもしれない。
そっか、今度やってみよう。

この神原さんの部屋はずっとなくなりません。
いつでも帰ってこられる場所が増えましたね。
わたしもまた、たまにのぞきに来ますね。
意味のないそのままの日々の尊さを、思い出したくなったときとかに。

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