小学校のころ通わされていた英会話スクールでは、みそっかすだった。
毎年サマーキャンプとクリスマスパーティーがあるから、という理由だけで入れられたそこはとても熱心なスクールで、教師とはもちろん、子ども同士でも日本語での会話は禁止、毎朝5時に起きてラジオを聴いて、暗唱のテストに受からなければ教室に入れない、そして日本の名前は使用しない、という場所だった。わたしは社交性がなく、寝坊で、忘れっぽかった。
わたしはそこで、ルースという名前をもらった。
入学式で名前を呼ばれたとき、とてもがっかりした。他の女の子たちがメアリーとか、キャシーとか、エマとか、アリスとかかわいい名前をもらって「ヒア!」と元気よく手を上げているあいだ、わたしはがっくりと肩を落としていた。カードに書かれた名前を受け取るとき、なんてさえない名前なんだろう、とおもった。ルーシーとか、ルビーとか、他にはなかったんだろうか。それに、あの先生の顔。名前を名乗るたびに、あんなふうに舌を突き出さなくちゃいけないなんて。
案の定、オープンクラスでわたしだけが何度も名前を言いなおすはめになった。ノーノー、リッスン、プリーズリピートアフターミー。ルース、ス、ス。
わたしがグッドをもらったのは、アップルの発音だけだった。
ルースという名前の意味を調べると、哀れみ、とあった。なんてさみしい名前なんだろう。
送迎バスはものの20分で車酔いするので、とちゅうから一人だけ自転車で通った。ずっと坂道なので、押して登るためにほとんど歩いていた。そのせいで遅刻すると、友だちからはルーズと呼ばれる。
毎朝5時のラジオはちっとも起きれなくて、火曜日はゆううつだった。オーマイゴッド、ルース・・・。恥ずかしくて列のうしろに並んでうつむいている前で、ふとっちょのキャシーがキンキン声で朝のラジオを読みあげ、ちらっと視線をよこして教室に入っていく。前の子のを聴いて、覚えるのだ。三回も並びなおしたころ、ルースはだめね、と言われた。
わたしは泣いて、ルースじゃないもん、と言えずにしゃくりあげていた。そうすると先生は、青い目をやわらかくして抱きしめてくれた。アイラブユー、ルース。アイ・ラブ・ユー。オーケー?
それからわたしは進級できず、スクールを辞めた。
ルース、と呼ばれた気がした。
町のパン屋だった。高校生になったわたしは、そこでアルバイトをしていた。
同い年くらいの、大人びた雰囲気のある女の子が、トレーとトングを持ったまま、「ルースでしょ?」ともう一度言う。誰だっただろう、と頭で考えて、それが全部向こうの名前だったのがおかしかった。
「リジー・・・エリザベスだよ」
おもわず、ぷーっと吹き出してしまった。──エリザベスだよ。
「あ!笑わないでよ!」
「ごめんね、だって急だったから」
他に客がいなかったので、わたしたちは少しだけお互いの話をした。
リジーはキャビン・アテンダントを目指していて、年上の彼氏がいて、今もあのスクールに通っているらしかった。クラスの中でも、ずっとじょうずに話す女の子だった。中学校は同じだったけれど、クラスが違ったのと、わたしがスクールを辞めてからはぜんぜん喋っていなかった。
「私、ルースって名前いいなあって思ってたよ」
「え!なんで?嫌だったよ、ルーズとか言われるし・・・」
「かっこいいじゃない、男の子にも女の子にもなれるし。私なんてクイーンって呼ばれて恥ずかしかったもん。それにいっしょだよ、スの発音」
前歯でほんの少し舌を噛んでみせるリジーに、わたしはもう一度吹き出してしまった。じゃあ元気でね、と彼女が店を出て行ったあと、なんとなく口にしてみる。ノーノー、リッスン、プリーズリピートアフターミー。ルース、ス、ス。
数年後、リジーはきちんとキャビン・アテンダントになり、結婚したことをしった。苗字を見て、ぜんぜん似合わない、とおもった。
わたしはときどき、ルース、と呟いてみる。