日常を憂う日々だった。理由はいいエッセイを書きたいから。私には特殊な出会いもおもしろい出来事も何もないと部屋のなかで嘆いていた。腐り朽ちていくまでいくばくもなかっただろう。生来が閉鎖的で排他的なのだ。瞼をこじ開けて世界を見ないと、すぐ繭に閉じこもる。
特殊な出会いが欲しい。おもしろい出来事が欲しい。刺激的な何かが欲しい。エッセイのために。そんなことを思い続けていたが、そのどろどろした思いは少しずつ成仏していった。
きっかけはこのアパートメントへの滞在から始まった。私はここで、自分を描くように心がけた。出てくる思いは死にたくないとか老いたくないとか、そういう負の感情ばかりだったけど、私はこの部屋で私に向きあった。それはひどくしんどいこともあった。自分の内面を晒すのだ。怖くて震える夜もあった。
それでも、アパートメントのこの部屋は、一人きりではなかった。私の文章だけではなく、私自身を見守ってくれる人がいた。レビューがつくたびに、世界が開かれ、形成されかけた繭をやさしく溶かしてくれた。私は、一人にはならなかった。
自分と負の感情は切っても切り離せないことを知った。私はきっと結構ネガティブな方だろう。前向きになるばかりが正解ではない。でも、憂鬱に浸るばかりも正解ではない。そして、そもそも人生に正解などない。
そして、最後の成仏のきっかけは、あるエッセイ講座に参加したことだった。そのエッセイ講座では感情を見つめることを徹底的に集中して行った。そうしているうちに、エッセイに特別な出来事など必要ないのだと気づいた。感情を見つめていくことを繰り返せば、いいエッセイには自然とたどり着く。そのために書き続けることだ。私がすべきことは特殊な出来事を待ちわびることではなくて、感情を描写する練習を積み重ねることだったのだ。
バスに乗ったら胃袋をひどく掻き回されるような運転で吐きそうになったとか、ファミレスの新作のパフェがおいしかったとか、そんなことでいい。そんなことの何がおもしろいと思うかもしれないが、私の当初の目的を思い出せばそれはそれでいいのだ。おもしろくなくても、日常を生きている。それが伝わることに意味がある。
自分を削りながらエッセイを書いていた頃の私へ。
エッセイは自分の一部を削りながら書くものじゃない。積み上げたものを一つ一つ取り出して、飾っていく営みだ。ライター/エッセイストと名乗っているのに、それに気づくのに本当に時間がかかってしまった。けれど、気づけてよかった。
まずは、毎日日記をつけ続けるところから始めよう。感じたことを覚えておこう。そして、書き続ける。私は、これからも書いていく。