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2F/当番ノート

ポータブル・インド

当番ノート 第54期

甘い匂いが漂い、オーブンを開ける。

そこに鎮座しているのは、人面瘡のような珍妙な形をした塊。しかも生焼け。

お菓子作りが苦手な私には、そんなことが度々ある。

「初心者でも安心!かんたんパウンドケーキ」などと銘打った懇切丁寧なレシピを使用しても、劇的に失敗する時があるのだ。その理由に思い当たる節があるときもあれば、全く分からず、そういう妖怪でも現われたのだろうな、と現実逃避をするときもある。

苦手意識を持ってしまってはいるが、優雅な休日のティータイムへの憧憬は未だ存在する。バターや小麦粉が焼かれる、甘い匂いが部屋にふわふわと広がっていくときの幸福感。もう焼けたかな、とオーブンを覗き込むときの高揚感。

それを想像するからか、失敗すると、美しく繊細でかわいらしいお菓子の世界から、「あなたは相応しい人間でない」と門前払いを食らったような気持ちになる。

しかし、ある日、インド料理の本をぱらぱらとめくっていてふと考えた。スイーツはだめでも、もしかしたらミターイーはできるのではないか?

ミターイーとは、インドの郷土菓子の総称だ。それは、西洋の手法とは異なり、インド独自の発展を遂げたものが多い。もとは供物とする目的のものが多く、暑い気温でも腐らないように、独自の研究の結果なのだろうと推察する。

有名なものでは、グラブジャムンというお菓子がある。ドーナツ生地のようなものを油で揚げ、さらに甘いシロップに浸したもので、世界一甘いスイーツとも呼ばれている。

ミターイーは、銀箔が貼られていたり、食紅で華やかな色になっていたり、ナッツやドライフルーツで彩られていたり、賑やかでとても楽しい。

また、最大の傾向として、なかなかに甘いものが多い。それでも、インド人はこれを甘いチャイと共に楽しむ。暑い気温に体力を奪われるインドでは、それがエネルギーチャージとして丁度いいのかもしれない。

西洋菓子は無理でも、インド菓子ならきっと大丈夫だ。だって私の普段の食生活は、西洋人よりインド人に断然近い。自分のなかに何か対象と同じ要素があれば、きっと呼応できると信じているのだ。好きなバンドのTシャツは似合う気がするが、ベストアルバムを1枚漫然と聴いただけのバンドのTシャツはなんだかしっくりこないように。

インド菓子のなかから、ラドゥを作ることにした。ラドゥとは、祭礼の際の供物、かつ親族の会合や祝いの場、たまのおやつなどにも食べられる、ヒンドゥー教のお菓子である。

味は駄菓子のきなこ棒に近く、食感はフランス菓子のブールドゥネージュのようにほろほろなものが多い。

ラドゥは、ベサン(ひよこ豆を挽いた粉)を炒め、ギー(精製したバター)と共に練り、お団子状にまとめたものだ。ナッツやドライフルーツが入っていたり、ココナッツをまぶしたり、食紅で色をつけているものもある。ブンディという揚げ玉をまぶしてシロップにつけたものもある。他のインド料理と同じく、地方や作り手によってそのバリエーションは様々だ。

買出しをせずに準備を開始した。生クリームや大量の卵などを買いにいかずに済むことがまず手軽で好きだ。ベサンに少しずつギーを混ぜ、木べらで練り続ける。ベサンはよく火を通さないと、豆の青くさい味が出てしまう。その反面、焦げやすいので、ずっとつきっきりで混ぜていないといけない。手は疲れるが、ベサンをずっと練っている作業はただ無心になって、鍋のなかのことだけを考えられていい。

このときは試しに二種類作ってみようと思い、砂糖を、製菓用の粉糖と、ジャガリー(サトウキビや椰子からとったインドの砂糖)に分けてみた。白砂糖は体を冷やし食感はほろほろ、ジャガリーは体を温めねっとりした食感になるだろう。それに合わせて、スパイスの配合も若干変える。これを一つずつまん丸にまとめ、ナッツやドライフルーツ、ココナッツをトッピングする。

味見すると、どちらも違うキャラクターになっていていい。少し形はいびつな気はするがよくできた。焦がしさえしなければ失敗しようがないのだが、まずは自信をつけることが大事なのだ。

嬉しくなった私は、いそいそとラドゥをキャンディ状にワックスシートで包み、家を出た。

ヨガを習う日だったため、先生のもとに持って行き、レッスン後に一緒に食べることにしたのだ。

ラドゥは、作りたてのときよりおいしく感じた。時間を経て生地が全体的にしっとり馴染んできたのもあるが、体をしっかり動かした後の甘いラドゥは心地よく、体に滋養が満ちていくようだったのである。そして、初めてラドゥを食べたという先生が、いたく気に入ってくれて、モリモリ食べてくれたのも大いに関係している。

ヨガのイベントをする際に、お茶菓子として出すのもいいね、という話をした。

気の置けない人と一緒に、のんびりと会話を楽しむこと。一人でも、忙しなさから逃れてほっと一息つくこと。それはインドも西洋も問わず、世界共通の菓子の役割なのだと改めて実感する機会となった。私と菓子がぐっと近づいた気がした。

自作のインド料理を食べてもらえる機会があるのは、家の行き来がある少人数の友人になってしまう。ふと会った人に興味を持ってもらっても、店を構えているわけでない私の料理をカジュアルに食べてもらうのは難しい。

そんなエゴにラドゥはぴったりだ。飴ちゃんを配る要領で、ラドゥを配れると楽しそうだ。 インド菓子によって、何か非日常を感じてもらえたり、休憩の機会になってもらえると嬉しい。

製菓の喜びに目覚め、後日、カルダモン入りクレームブリュレを作った。うまくいったので、それを発展させて、今週はチャイ味のクレームブリュレを作った。こちらは茶葉を入れすぎたのか、猛烈に喉が渇く品になった。

しかし、チャイ味にしたら飲み物は何を飲選べばいいのだろう。甘いチャイと共にやるのは猛烈な違和感がある。だからインド菓子ではチャイ味のものはあまりないのだろうな・・・とすごく当たり前のことを作ってからやっと気づく。

お菓子職人への道のりは遠いが、ことあるごとにこの非日常の小さい塊を鞄に忍ばせて、友人にインドを押し付けていこうと思う。

たお

たお

カレー、インド料理を作っています。
「なんか好きだけどよくわかんないなー何が正解なんだ?」ともやもやするものに出会うことに大いなる喜びを感じます。
イラストや漫画も描きます。猫が好き。

Reviewed by
虫賀 幹華

例にもれず、今回もたおさんの記事を読んで、ミターイーに関する思い出が次々と湧き上がってきた。インドでは、嬉しいことがあると友人知人にミターイーを配る。博士論文を提出したとき、大家さん家族と、10年来付き合いのある家族たちのところに、街一番の菓子屋「カーマデーヌ」のカシューナッツのバルフィーを箱買いして持って行ったこと。それぞれの地域に独特の菓子があり、それぞれの街に評判の菓子屋がある。地元の人に聞くのが一番だ。私が住んでいたビハールの田舎町ではゴマを使ったお菓子「ティルクト」が有名で、しばらくすると私も美味しいお店がわかるようになった。その頃は、たまに大学のある方の街に行っていたが、その度に大学の先生や仲の良い家族にお土産でティルクトを持って行っていた。私が選んでくる菓子について美味しいという感想をもらうと、地元の人として認めてもらえているようで嬉しかった。寺院や祭礼の時に「お下がり」としていただいた菓子たち、そしてなんと言っても、最後の大家のおばさんの手作り菓子の数々は忘れられない。
・・とまあ、私の個人的な思い出はこれくらいにしておこう。今回のたおさんの記事で印象に残ったのは、ベーサンのラッドゥーを作ることに決めた後の次の文章である。「買出しをせずに準備を開始した。生クリームや大量の卵などを買いにいかずに済むことがまず手軽で好きだ。」
そう、ミターイーは家にある材料で、肩肘張らずに作るものなのだ。西洋菓子は、各材料の分量を少しでも間違えると失敗するという印象があるけれども、インドの家庭では、目分量でダイナミックな菓子づくりしか見たことがない。ミルク、ギー、砂糖、ベーサン、スージー(セモリナ)など、キッチンに必ずある食材でさまざまな菓子がすぐにできてしまう。
ただ、ミターイーが気軽に作れるのは、あくまで「インドの家庭」での話だ。もう何度も書いている気がするけれども、今回の記事で、たおさんの家のキッチンはインドの家庭のそれであると確信したのである。

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