幼稚園の頃、運動場でよくする集団演技があった。巨大な淡いピンクの丸い布の端をぐるりと20人くらいの園児たちが持ち、それを空高く持ち上げる。風に当たってゆらゆらしてる布を宙に持ち上げながら、園児たちが音楽に合わせゆっくり円状に周っていると、急に音楽がぴたりと止まる。それを合図に、皆さっと内側にすべり込み、布の端をお尻で抑えて座る。空気をたっぷり含んでドーム状になった布の内側で、車座に座り上を見上げると、ドームの天井が風にゆらゆら揺れていた。私達の間にはうっすらピンク色に染められた光が充満し、私は何かに守られているような安心感を感じたものだった。
しかし、私はこの遊びが実はとても苦手だった。一人テンポがずれるのだ。音楽が鳴り終わっても、皆と一緒にさっと内側に入ることができずに、1人だけドームの外に取り残された。真ん丸のドームの中から、きゃっきゃっと声が聞こえてる。校庭にポツンと残された私は、引きつった顔で布の色んな所を引っ張ってみるのだが、皆のお尻がぎゅっと布を抑えているせいでいくら引っ張っても入れない 。急に世界から一人だけ放り出された感覚に襲われた。このままずっと取り残されたままなのではないかという不安が襲い、胸や喉がぎゅっと締め付けられて鼓動が早くなってくる。次の音楽が鳴り始めるまでの間はきっと3分もなかったと思うのだが、その時の私にとっては、その時間が1時間にも2時間にも感じられた。
最近まで私は、幼稚園の頃のように、社会というドームにうまく入れないことがとても苦しかった。病気である自分、女性である自分、ずっと働けてない自分を忌避し、何とかして中に入れないものかと試みてみるものの、どこにも隙間が無くて焦る気持ちばかりが募っていた。しかし、1人で当事者研究をし始めて、そもそも、子供のころのようにドームに入る努力をしなくてはならないのだろうかと疑問を持ち始めた。
黒人解放の神学の父と呼ばれるジェームズコーンの『誰にも言わないと言ったけれど』が好きで何度も読みなおしている。この本は私に「解放とは何か」を考えさせてくれた第2のバイブルだ。コーンはこの本で、白人中心主義社会での生存のために本当の自分を偽る「ニグロ」の仮面を被った自分から、真の「黒人」へと解放されていく過程を書いている。更に、他の黒人たちに対しこう呼びかける。「自分を憎むのはもうやめにしよう。神が黒人を創造されたのだから、自分自身を、その顔を、大きな鼻と唇を愛そうではないか。そうして初めて、私たちは神のことも愛せるのだから。黒人であることは、神から人間への賜物なのだ」
徐々にコーンは、黒人の解放だけではなく、他の小さくされた者(性的マイノリティや黒人女性)についても目を向け始める。この過程を見ると、他者からかけられた呪いの鎖を外し解放されることによって初めて、自分自身の手を隣人に伸ばすことができるのではないだろうかと感じた。イエスキリストは「汝を愛すが如く他者を愛せよ」と言っている。「他者を愛すが如く汝を愛せ」ではない理由はここにあるのであろう。
真の意味で自分を愛するという行為は、社会の中に何とか入ろうとあがいている状態では出来ないのではないだろうか。過去の自分を見返すと、周りに沢山人がいる時期は、私が他者からどう見られるかを気にして自分を偽っている状態だった。その時はまるで幼稚園の時のピンクのドームに入れた時のように、心地よい、安心感がある状態だと思っていたけど、コーンの言葉を借りれば「ニグロ」の仮面を被っていたことになるのだろう。自分を愛せた時、思っているよりずっと人は孤独なのではないだろうか。そして孤独になれたときこそ、今にもかき消されそうな小さくされた者たちの存在に気づくことができるのではないだろうか。
19人も人が殺された相模原障害者殺傷事件の風化の速さはこの世の中のありようを現わしているのだろう。彼ら/彼女らは、生きている時も施設に入れられ社会から排除された生活を強いられた。そして死んでからも、「みほさん」以外の名前は匿名のままだ。彼ら/彼女らは生きている時もそして死んでからも名前を奪われている。
世の中には誰からも何も声をかけられずに、ひっそり生きてひっそり死んでいく人がいる。人が死んだときその死を悲しむという人として当たり前の行為も叶わない人がいる。メディアで有名人が死んだ報道を聞くと、皆直接知らなくてもその死を悲しむ。しかしその裏で、今日も名前を奪われた人々は死んでいる。私はいつも誰にも気づかれないで、ひっそり生きてひっそり死んでいく、そういう人に気づける人でありたいといつも思う。