「序」「破」「Q」と来て、「襲来」「渚」「Air」「まごころを、君に」。そして、「シン」。最後は「世界の中心でアイを叫んだ落とし物」で終える。おめでとう。「序・破・Q」から振り返ろう。
落とし物やごみなどの地面に転がっている物には、落とし物やごみの落とし主・失くし主(そして、ポイ捨てした奴)の面影が感じられる。落とした人、失くした人の抱える寂しさが、ぼんやりと感じられるのである。私が「地面」の写真を撮り続けているのは、この寂しさを知るのが何やら楽しいから。これが一番シンプルな理由である。
しかし、地面に落ちている物に誰かの面影を見るのではなく、地面に落ちている物そのものが生きているかのように思えることがある。この落とし物・ごみは今落とされて(捨てられて)寂しがっているんじゃないか、など。
整理すると、地面の写真を撮る時に二つの「命」を感じているという話。一つは落とし主・失くし主、すなわち、この世に確かに存在している命。もう一つは、落とし物・ごみが生きていると妄想することによって生み出される架空の命である(「この世に存在している」の定義まで聞かれると話が終わらないが)
この架空の命の創造は「八百万の神」だったり「アニミズム」だったり、ちょっとオカルトな話にも聞こえるが、実際は「ゆるキャラを作ろう」とか「擬人化しよう」とかその程度のノリである。
結構ややこしいので、もう一度整理しよう。
・「地面のファン」は落とし物・ごみに落とし主・失くし主の面影(この世に存在している命)を感じ、それを楽しんでいる
・落とし物・ごみ自体にも命があるかのように(架空の命)妄想して遊んでいる
…シンプルな言葉にすると、非常に滑稽ですね。さて、この「命」を感じるために地面の写真を集めている。地面には、いくつかの種類があることも抑えたい。
①雨風で地面に落ちる花のように「自然」が「自然に」に現れる地面
②落とし物のように「人間」が「自然に」に生み出す地面
③ポイ捨てのように「人間」が「意図的に」生み出す地面
④「自然」が「意図的に」というのは何だろうか、これはワカラン
上記のように、ある地面の状態を生み出した主体が「自然」か「人間」かという違い、として「自然に」あるいは「意図的に」生まれたという違いによって、地面の受け取り方が変わる。この「自然」「人間」も「命(この世に実在している)」であるから、話はまたややこしい。
そして、もう一つ、ややこしい。この地面を見る観測者、すなわち私たちがいるのである。私たちもまた「命(この世に実在している)」である。
・「自然」か「人間」が主体となってある地面の状態が生まれる
・「自然に」あるいは「自然に」生まれる
・その地面観測する私たちもまた「命」である
「命(自然・人間)」によって落とされ、「命(実在・架空)」が生まれて、「命(観測者)」が感じ取る。
あるいは、
「命(自然・人間)」によって落とされ、「命(観測者)」が感じ取って解釈することで「命(実在・架空)」が生まれる。
こんな「命」の創造を繰り返しているのが、「地面のファン」なのである。
ここまで書いて腑に落ちる部分が多いのだが、ぶっちゃけなんか変だな、と思う部分もある。そもそも、そんなことを考えずになんとなく写真を撮っている気もする。無理矢理に理由を付けるのであればこんな感じで、実際は特に理由はないのかもしれない。こんなことを言ってしまうと、これまでの記事が台無しだが。
と、ぐだぐだ言っている私も「命」か。終劇。