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2F/当番ノート

凪子#1

当番ノート 第56期

1 凪子のヘアゴム

 凪子の髪は、ほんのりとシャンプーの香りがする。化学製品をたっぷり含んだバラの香り。その香りは、ひとたびかいだら誰もが虜になる。まさに、凪子そのものだ。

 凪子の髪のことなら、わたしは何でも知っている。香りはもちろん、その指通りの良さや、ウットリするようなしなやかさ、琥珀色のその髪が、夕日に当たったときの、焼けつくような美しさ。わたしは何でも知っている。毎晩、しっかりと手入れをしていること。使っているシャンプーの銘柄。リンスは、シャンプーと別の銘柄を使っていること。わたしは何でも知っている。その艶やかさ、その煌めき。

 わたしは何でも知っている。凪子の髪を束ねているのは、わたしだから。

         ◯

 女子トイレの鏡の前で、凪子が髪を結っている。長い髪を、後頭部で束ねて。わたしは、凪子の口に咥えられている。彼女は髪を束ね終わると、右手で束をおさえたまま、わたしを左手で受け取り、あっという間にポニーテールをつくる。

「なんかさぁ、タイクツだよね」隣でメイクを直している麻衣が呟く。

「タイクツ」凪子はオウム返しをした。

 麻衣がまつ毛を入念にメイクしているのは、この間、ナラザキにまつ毛を褒められたからだ。麻衣は高1の頃からナラザキに恋している。麻衣が凪子に恋愛相談するところを、何度見ただろう。麻衣は派手な見た目によらず奥手で、高2になった今でも、進展も後退もない。

「ナラザキの何処がいいの?」

「何処がいいとかじゃないの」

 麻衣は微笑んだ。

「存在が好きなの」

         ◯

 ナラザキと凪子が付き合っていることを、麻衣は知らないだろう。誰にも見つからないように、放課後、こっそり二人で帰っていることも。

「俺、夕焼け見ると、凪子を思い出すんだ」暮れかかった空を見上げながら、ナラザキが言った。

「どうして?」

「どうしてかな。凪子ってさ、なんていうか、夕焼けみたいな存在なんだよな」

「そうなんだ」凪子は呟いた。その表情は、わたしには見えない。

 沈黙ができた。風の音や、車の音が漂っている。

「ねえ、凪子」

「うん?」

「どうして俺と付き合ってくれたの?」

 また沈黙ができて、わたしには、凪子が考えあぐねているのがわかった。

「……理由なんてないよ。なんとなく。楽しそうだったから」

「……そっか」

 それからしばらく、二人は何も話さなかった。

         ◯

 凪子は授業中、誰かに後頭部を睨まれることがある。気づかないうちに、誰かの反感を買ってしまっているのだ。凪子はそのことを知らない。いや、知っているのかもしれない。けれども、その恐ろしい眼を見たことがあるのは、きっとわたしだけだ。その眼は、恨めしさと、羨ましさが混ざり合って、真っ黒に濁った、泥沼みたいな色をしている。

 凪子の美しさを、誰も否定することはできない。ひと目見れば、誰もが凪子に取り憑かれる。誰もが魅了され、翻弄され、嫉妬に狂う。まるで、ひとたびかいだら虜になる、バラの香りのシャンプーみたいに。

 彼女の美しさが、彼女自身を脅かしていることに、本人は気づいているのだろうか。

         ◯

 麻衣が出ていった後の教室で、凪子は立ったまま、しばらく呆然としていた。

 窓の外で、風に吹かれた木々がガサガサと音を立てる。夕焼けの光はオレンジ色に輝き、凪子の髪に、はちみつのようにまとわりつく。

 麻衣にビンタされたという事実が、凪子にはズシリと来ているらしかった。親友の恋の相手を奪ったのだから、ビンタくらいされても仕方ないのだけれど、凪子にはズシリと来ているらしかった。

 凪子は結んだ髪を解こうと、わたしを引っ張る。その引っ張る力が少し強くて、ぷちん、という音とともに、わたしはちぎれてしまった。凪子の長い髪がふわりと広がる。

「あーあ、ちぎれちゃった」そう呟くと、傍にあったゴミ箱に、凪子はわたしを捨てた。

七瀬 薫

七瀬 薫

大学生。
小説家。

Reviewed by
マスブチ ミナコ

凪子はどんな子だろう、とわたしは想像する。
いつも夕焼けは掴みづらい。
ばたばたしているとあっという間に夜になっていて、その隙間にうまく入れると美しい夕焼けが見れる。
そうやって凪子も人の心にあまりにするっと入ってしまい、やっかいな思いまで巻き取ってしまうんだろうか。
切れてしまった「わたし」のように、ゴミ箱の中から凪子を見上げる。
きっと、友達に頬を叩かれた後ですら、ちぎれて離れてしまった状態ですら、凪子から目が離せないんだろうと思う。

レビューを書かせていただこう、と、聞いていた音楽を止めた。
七瀬さんのお部屋にお邪魔するのは初めてだし、どんな服装で行こう、白シャツにデニムくらいがいいかな、というあたりの気持ちだった。
読み始めたら、音楽を止める必要なんてなかったかもしれないと思った。お部屋の中には七瀬さんの音と色が無数に溢れていたから。
わたしの聴いていた音楽も、七瀬さんの世界に、凪子に、するっと引き込まれてしまったのかもしれない。

学生の頃、同級生が「街で知らない男の人に髪切られちゃって」と、けろっと言ってロングヘアをショートにしてきたことを思い出した。
みんな驚いて心配した。ナンパされて断ったら急に切られちゃってさあ、と、本人は仕方ない風だった。
これまでもそんなことが日常茶飯事だったんだろう。その子を恋人にした先輩はいつも自慢していた。
ショートカットの彼女も変わらずきれいだった。美しい人の出会う日常は、驚くことばかりだ。

凪子の髪が切られなくてよかったと「わたし」は思ったのかもしれない。
自分はゴミになって燃やされて、もう凪子の髪と一緒にいられなくても、
彼女が自分を強く引っ張るくらいで済んで、そのやりきれない気持ちが夜になってしまわないように。

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