1 凪子のヘアゴム
凪子の髪は、ほんのりとシャンプーの香りがする。化学製品をたっぷり含んだバラの香り。その香りは、ひとたびかいだら誰もが虜になる。まさに、凪子そのものだ。
凪子の髪のことなら、わたしは何でも知っている。香りはもちろん、その指通りの良さや、ウットリするようなしなやかさ、琥珀色のその髪が、夕日に当たったときの、焼けつくような美しさ。わたしは何でも知っている。毎晩、しっかりと手入れをしていること。使っているシャンプーの銘柄。リンスは、シャンプーと別の銘柄を使っていること。わたしは何でも知っている。その艶やかさ、その煌めき。
わたしは何でも知っている。凪子の髪を束ねているのは、わたしだから。
◯
女子トイレの鏡の前で、凪子が髪を結っている。長い髪を、後頭部で束ねて。わたしは、凪子の口に咥えられている。彼女は髪を束ね終わると、右手で束をおさえたまま、わたしを左手で受け取り、あっという間にポニーテールをつくる。
「なんかさぁ、タイクツだよね」隣でメイクを直している麻衣が呟く。
「タイクツ」凪子はオウム返しをした。
麻衣がまつ毛を入念にメイクしているのは、この間、ナラザキにまつ毛を褒められたからだ。麻衣は高1の頃からナラザキに恋している。麻衣が凪子に恋愛相談するところを、何度見ただろう。麻衣は派手な見た目によらず奥手で、高2になった今でも、進展も後退もない。
「ナラザキの何処がいいの?」
「何処がいいとかじゃないの」
麻衣は微笑んだ。
「存在が好きなの」
◯
ナラザキと凪子が付き合っていることを、麻衣は知らないだろう。誰にも見つからないように、放課後、こっそり二人で帰っていることも。
「俺、夕焼け見ると、凪子を思い出すんだ」暮れかかった空を見上げながら、ナラザキが言った。
「どうして?」
「どうしてかな。凪子ってさ、なんていうか、夕焼けみたいな存在なんだよな」
「そうなんだ」凪子は呟いた。その表情は、わたしには見えない。
沈黙ができた。風の音や、車の音が漂っている。
「ねえ、凪子」
「うん?」
「どうして俺と付き合ってくれたの?」
また沈黙ができて、わたしには、凪子が考えあぐねているのがわかった。
「……理由なんてないよ。なんとなく。楽しそうだったから」
「……そっか」
それからしばらく、二人は何も話さなかった。
◯
凪子は授業中、誰かに後頭部を睨まれることがある。気づかないうちに、誰かの反感を買ってしまっているのだ。凪子はそのことを知らない。いや、知っているのかもしれない。けれども、その恐ろしい眼を見たことがあるのは、きっとわたしだけだ。その眼は、恨めしさと、羨ましさが混ざり合って、真っ黒に濁った、泥沼みたいな色をしている。
凪子の美しさを、誰も否定することはできない。ひと目見れば、誰もが凪子に取り憑かれる。誰もが魅了され、翻弄され、嫉妬に狂う。まるで、ひとたびかいだら虜になる、バラの香りのシャンプーみたいに。
彼女の美しさが、彼女自身を脅かしていることに、本人は気づいているのだろうか。
◯
麻衣が出ていった後の教室で、凪子は立ったまま、しばらく呆然としていた。
窓の外で、風に吹かれた木々がガサガサと音を立てる。夕焼けの光はオレンジ色に輝き、凪子の髪に、はちみつのようにまとわりつく。
麻衣にビンタされたという事実が、凪子にはズシリと来ているらしかった。親友の恋の相手を奪ったのだから、ビンタくらいされても仕方ないのだけれど、凪子にはズシリと来ているらしかった。
凪子は結んだ髪を解こうと、わたしを引っ張る。その引っ張る力が少し強くて、ぷちん、という音とともに、わたしはちぎれてしまった。凪子の長い髪がふわりと広がる。
「あーあ、ちぎれちゃった」そう呟くと、傍にあったゴミ箱に、凪子はわたしを捨てた。