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2F/当番ノート

凪子#4

当番ノート 第56期

  4 凪子のコンタクト

 僕の見ている世界は、要するに、凪子が見ている世界だ。それ以上でも、それ以下でもない。だって僕は、凪子のコンタクトなのだから。凪子が朝、僕を目に入れて、夜、外すまで、僕はずっと、凪子の世界を見ている。

 凪子は美しいけれど、彼女の見ている世界は、何もかも美しいわけではない。汚いものもたくさん見る。道端に吐き捨ててあるガムだったり、裏路地を埋め尽くすゴミだったり、そのゴミに群がるゴキブリだったり、バスルームにはびこるカビだったり、自分の出した排泄物だったり。そういうものを、凪子は毎日のように目にしている。世界は汚い。まるで、人の心を具現化するみたいに、街はゴミで埋め尽くされている。一見、綺麗な通りでも、隅々までよく見れば、汚いもので溢れている。僕は凪子の眼として、いろいろなものを見てきたけれど、その中でも特に汚かったのは、喫煙所の灰皿の中に溜まった、真っ黒な水だ。タールの燃えカスが水に溶け出して、真っ黒になっていた。あれほどに汚いものを、僕は見たことがない。

 もちろん、凪子の世界は、何もかもが汚いわけではない。こんなに薄汚れた世界にも、ちゃんと、美しいものはあるのだ。夜、真っ直ぐに伸びた帰路を照らしてくれる、真っ白な街灯の光。家々から溢れ出す、橙色の灯り。高校の屋上から見える町並み。休日、昼下がりのリビングで、コップに氷を入れ、ソーダ水を注いだときの、弾ける透明な泡。帰りの電車から見える夕焼け。風にそよぐ、青々としたプラタナス。朝、出かける時、ドアを開けると降り注ぐ、太陽の輝き。そういう、美しいものを見たとき、凪子の視線は、しばらく止まる。美しいものを、立ち止まって、じっくりと観察するのだ。凪子は、美しいものを美しいと思える人間だ。その美しさを、しっかりと享受できる人間なのだ。僕にはわかる。僕には、わかる。

 凪子の視界には、人間がしょっちゅう出入りする。友人、ただの通行人たち、ナラザキ、社長、担任、母親。通行人はよく、凪子の顔を二度見する。凪子の容姿が美しいからだ。凪子はよく、男と眼が合う。その眼はたいてい、凪子を品定めしようという感情がむき出しになっている。そういう眼を見たとき、一瞬、凪子の視線はうつむく。うつむいたその視界は、少し暗い。様々な人間が踏みつけて薄汚れた地面は、少し暗い。

 ナラザキといるとき、凪子はあまり、彼の眼を見ない。興味がないのだろう。ナラザキが何かを喋っている間、凪子はたいてい、遠くを見つめている。ナラザキの背後の壁だったり、空だったり、地面に落ちている空き缶だったり、そういうものを、ただボーッと見つめている。空き缶を見つめることに、どんな意味があるのか、僕にはわからない。

 対象的に、社長と喋っているときの凪子は、彼の眼をずっと見ている。その時、凪子の視界には、社長しか映っていない。社長の話に興味があるのか、それとも、ただ媚びているだけなのか。凪子の視界に映る社長は、本当に幸せそうな顔をしている。そんな社長の姿が、僕には痛々しく見えて、眼をつむりたいけれど、凪子はつむってくれない。

 ある日、凪子の眼に砂が入ってきて、彼女は僕を外した。そして、誤って僕を落とし、踏んでしまった。僕はハードコンタクトだけれど、あの時ほどソフトコンタクトになりたいと思ったことはない。あっけなく、僕はバラバラになってしまった。

 願わくば、もっと凪子の世界を見ていたかった。汚いけれど美しい、そんな矛盾した凪子の世界を、もっと見ていたかった。

 僕は凪子に捨てられた。

七瀬 薫

七瀬 薫

大学生。
小説家。

Reviewed by
マスブチ ミナコ

僕にはわかる。僕には、わかる。
と繰り返す「僕」が凪子の視界を通して思うこと。
他の人やモノには知り得ない、凪子が何を見ようとしているのか、ということ。
きっとそれを凪子の周りの人たち、もしかしたら特に男の人たちは知りたくて仕方がないものかもしれない。
もしかしたら凪子の考えを「わかっている」ものとして扱っている人もいるのかもしれない。

汚いけれど美しい、そういう世界につらくなることもあるのだろうと思う。
それでも凪子の世界を見ていたかった「僕」のことを、少しだけ自分の過去に重ねて想像する。
ハードコンタクトレンズを使っていて落としてしまった時、何とも心細くなったことがある。
目にはめた瞬間、自分の世界をクリアにしてくれる小さな相棒。

ナラザキといるときに彼を見ない凪子。
空き缶を見つめることに、どんな意味があるのか、僕にはわからない。
と、凪子への「わかる」「わからない」も含めて、彼女の世界を見ていたかった「僕」。

凪子の世界をクリアにしていた「僕」を捨てて、凪子は何か別のものをはっきりと見ようとしているのだろうか。

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