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2F/当番ノート

凪子#3

当番ノート 第56期

  3 凪子の口紅

 どんなに急いでいる朝でも、凪子は必ず、眉と唇だけはメイクをする。すっぴんでも十分整っているのに、どうして遅刻してまでメイクするのか。アタシにはわかる。メイクが、凪子にとってどれだけ大切なことなのか。アタシにはわかる。凪子は、美しくないといけないのだ。素の自分なんて、見せてはいけないのだ。すっぴんでいたって、凪子は誰からも愛されるだろう。だから、化粧で誤魔化しているとか、そういうことではないのだ。それは呪縛のようなもので、果たしてその呪縛が、社会から求められているものなのか、凪子自身から来るものなのかは、よくわからない。

 とにかく、今日も凪子は、アタシを唇に塗って出かける。

         ◯

 凪子とその彼氏のナラザキは、たいてい、屋上でキスをする。フェンスにもたれかかって、青い空の下、キスをする。それはとても、高校生同士がしているとは思えないくらい情熱的なキスで。

 ナラザキの唇は柔らかい。それに、なんの臭みもない。いわゆる、口独特の、あの臭みが全くない。こいつ、人間ではないのか? と、私はつい、疑ってしまう。それくらい、ナラザキの口は臭いがないのだ。

 唇をくっつけると、今度は、ナラザキの舌が入り込んでくる。これまた臭いのない舌が。その動きが気持ち悪い。舐め回すような、口の中でビー玉を転がしているときのような、奇妙な動きなのだ。凪子も負けじと舐め回す。タコの触手みたいな動きで。アタシはいつも凪子の唇に乗っかっていて、この時間は唯一、不快に感じる。キスの時間は、とにかく、不快だ。

         ◯

 社長の口は、とにかくハッカのニオイがする。社長は凪子とのデート中、しょっちゅうフリスクを口に放り込むのだ。

「どうしてそんなに口臭を気にするの? 私、別に臭くてもいいよ?」と凪子が言うと、

「印象で生き延びる業界なんだ。気にして当然だよ」と社長は答える。

 社長は人気ファッションサイトの運営をしている。

 社長と会うときの凪子は、メイクが一層入念になる。21歳という嘘の年齢が、彼女にそうさせているのだろう。社長は凪子を大学生だと思っている。本当の凪子は17歳。凪子は社長に諭吉をもらって、週に一度は共に寝る。

 社長と凪子の出会いは、ツイッターのDM。凪子から連絡をして、やり取りが進んで、いつの間にか会うことになって、気がついたら寝ていて、それが何度も繰り返されて、今に至る。凪子が何をしたいのか、アタシにはよくわからない。

 社長のキスはものすごくエロい。舌使いがエロい。いわゆる、いやらしいおっさんがするようなキスだ。まあ社長はおっさんだから、仕方ないのだけれど。社長の唇は凪子の唇を包むように吸い付く。そのまま、凪子の唇を食べてしまうんじゃないかと思うくらい大きく口を開いて。

 アタシは、社長のキスも不快に感じる。凪子は、どう思っているのだろうか。

         ◯

 朝、いつものように、凪子がメイクをしていた時、アタシはついに、使い切られた。

 凪子は無心に、アタシを燃えるゴミの袋に放り投げる。

 アタシは凪子に捨てられた。

七瀬 薫

七瀬 薫

大学生。
小説家。

Reviewed by
マスブチ ミナコ

自分が何を感じているのか、自分の感覚として理解できる人は、実は少ないんじゃないかと思う。
特に、いやなもの、不快なもの、そういった類のもの。

「アタシ」は、他者と凪子の濃密な関係でいつも板挟みだ。
凪子の行動にいっぱいハテナマークを浮かべながら、それでも凪子の唇を、他者に剥がされそうになりながら守ろうとしているように思えた。
凪子が声を発し、美しく微笑み、吸い寄せられた者と重ねる唇。
その関わりを「アタシ」は一身に引き受ける。それでも、引き受けきれない。ただ不快なのだ。

もし、凪子が「アタシ」の不快な気持ちを知り、それを自分の気持ちと照らし合わせたらどうなるのだろう。
凪子は男性たちとの関わり合いを変えるかもしれないし、変えないかもしれない。
それはともかくとしても、自分が「アタシ」のようにばっさりと捨てていったものたちのように、
凪子も自分の気持ちをモノのように思っているのかもしれない。

捨ててきたもので、凪子という人が見えてきそうな気がする。
もしかしたら、誰しも、捨ててきたモノにこそ何か特別なものを持っているのかもしれない。

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