今日は久々に、日が射している。ここしばらく、雨や雪で、空は濁った灰色のままだったから、このまぶしい暖かさが心地いい。冬場の雨、雪は寒さを増幅させるけれど、乾燥を和らげてくれるので嫌いではない。だけど、そのぐずぐずした天気が続くと、どうしても日の光が恋しくなるし、今日のような寒い日に、窓辺のあたたかな日差しを浴びていると、まだ来ぬ春への期待や、恋しさで胸が焦がれてしまうのも無理はない。
ふと、ブーゲンビリアの鮮やかな色彩を思い出す。
わたしの実家に続く坂道には、ブーゲンビリアがいつも咲き乱れていた。真っ青に晴れた昼下がりには、思わずそばにかけ寄って、その苞に触れながら、ぼんやりと時間が過ぎるのを待つのが好きだった。
わたしが住んでいた地域では、ブーゲンビリアのことを”Primavera(春)”と呼んでいた。なぜ、その花を”春”と呼ぶのか、それが一般的な名称なのかもよくわからない。だけど、”Primavera”と口にする度に、鮮やかなマゼンタと、白い長屋へと続く、急勾配の坂道を思い出さずにはいられない。そうか、窓辺のほんの微かな春の気配が、ブーゲンビリアの色を思い出させたのか、と気がつく。そして同時に、サンパウロの街は、これから少しずつ秋に向かうのだ、と季節の移り変わりに思いを馳せる。
ブーゲンビリアの花の名が、日本の春と、ブラジルの秋とを結んで、繋ぐ。目をとじて、真っ赤になった視界のずっと奥の奥で、いまは遠い場所へ、いつもの坂道へと、つかの間の小旅行をさせてくれる。ここではない場所への想いと、季節と、色と、匂い、様々なものに対する「あの気持ち」がわき出してくる。この気持ちがある限り、わたしはきっとブラジルを忘れないで生きていける。
こういう風に生きることが、いいのか、悪いのかなんていうことはわからない。そんな思いでいるならば、すぐに国へ帰ればいいと人は言うかもしれない。だけど、絶え間なく小さな旅をしながら、夢を見続けることでしかその身を保てない漂流者の気質は、なかなかすぐに変えることはできない。その気質こそが、わたしの本質なのだと思うことすらあるのだから。
だからね、ほんの微かな気配だとしても、それがわたしに静かな旅をさせてくれるなら、多分、それでいいんだよ。人になんと言われようと、それでいいのだと思えるようになったから、わたしはようやく一人前の漂流者になれたんだと思う。