昨年の大晦日、伯父の家に集まって年越しをした。久々に会った伯母に、Keikoちゃんと呼ばれたとき、あぁ、この人はわたしが言ったことを、いまでもずっと守ってくれているんだ、と思いながら、恥ずかしさと言いようのない居心地の悪さに駆られて、その場から逃げ出したい気持ちになった。
海外では、ある人物にちなんでその人と同じ名前をつけることがある。例に漏れず、わたしにもそのようなミドルネームがある。わたしが生まれてすぐ、出生届を役所に出しにいった父のちょっとした思いつきで、 ”Keiko”(けいこ)というミドルネームがつけられた。それはわたしの母の名前だった。
Keikoという名前は、日本にくるまではただのミドルネームに過ぎなかった。誰もがわたしをMaysaと呼んだし、それがわたしのファーストネームだったから、誰もミドルネームで呼ぶことなどしなかった。
だけど、日本にやってきてから、わたしは自分のファーストネームで呼ばれなくなった。日本にはなじみのない名前だったし、アルファベット表記は誰にも正しく読んでもらえなかったし、なにせ Keiko という日本名のほうがすぐにおぼえてもらえたから。まわりの人々にそう呼ばれ続けるうちに、 わたしはいつのまにか、Maysaであることをやめ、Keikoとして生きるようになっていた。
幼いころのわたしの目には、人と違うということは”良くないこと”のように見えていた。母の白い肌や西洋風の風貌、わたしや弟の茶色い巻き髪に大きな目、日本人の顔なのに日本語を話せない父、そういったわたしたちに向けられていた人々の目は、好奇に満ちたものだった。どこへいってもわたしたちは無数の目に肌を焼かれ、ときには言葉に心を焼かれた。いつだって晒し者のようだった。両親はいつだって堂々としていたけれど、わたしは常に恐怖に震えていた。その場にいるだけで悪いことをしているような気持ちだった。そんな視線から身を隠そう、正体を隠そう、せめて両親と離れているときは日本人にみえるようにしよう、そういう小さな小さな積み重ねが、少しずつわたしをねじ曲げていった。
そして、わたしは罪を犯した。両親やまわりの親戚たちに、人前でわたしのほんとうの名前を呼ぶことをやめさせた。そして、人前でポルトガル語を話さないでくれと、ふてぶてしくも言い放った。まだ小学校低学年くらいのことだ。子どもの言うこととはいえ、両親や親戚たちはわたしにそう言われたとき、いったいどのように感じただろうか。それを考えるたびに、胸が締め付けられるように苦しく、涙がこみあげてくる。とても悲しいことだけれど、彼らはわたしの言葉に従った。わたしは、家の中でもKeikoと呼ばれるようになったし、両親は人前ではあまりポルトガル語を話さなくなった。だけど、そのことはわたしをちっとも幸せにはしなかった。
いくら呼び名が変わっても、わたしたちに向けられていた目線は変わらなかった。いくら日本人らしく振る舞っても、いくら漢字テストの点数がよくても、いくら礼儀正しくても、わたしは結局最後まで外国人だった。人々は大なり小なりの差はあれど、わたしを日本人としては認識していなかった。わたしはただ単に「日本人みたいに」なにかができるだけだった。
それでも、わたしは「日本人みたい」という言葉を聞きたいがために、日々必死に周りの大人たちの模倣をした。でも、いくら努力しても満足できなかった。思っていたような評価じゃないように思っていたし、常になにかが足りない気がしていた。多分、よくわからないなりに、人々の言葉や態度に違和感をおぼえていたんだと思う。今ならその違和感がなんなのかよくわかる。当時は「日本人みたい」という言葉は純粋に褒め言葉だと思っていたけれど、本当は違っていた。発話者がどれほどの認識で言っているのかまでは推し量れないけれど、「日本人みたい」という言葉の裏には、「あなたは外国人だけれど、まるで日本人のように〜できる」という意味が内包されている。つまり、発話者がわたしのことを「日本人ではない異質のもの」としてとらえていることの裏返しだった。