人と話すのがとても苦手だ。テンポの良い言葉のキャッチボールというのが難しい。気が利いたこともなかなか言えない。「おはようございます」と「こんにちは」も上手く言えなくて、先日、モネの夕方の散歩でいつも会うポメラニアンを連れたおじさんに「おはようございます!」と言ってしまった。私とモネの後ろに長い影ができていた。
気の利いた褒め言葉がぱっと出てくる人は羨ましい。私自身もそうだけど、やっぱり褒められるとうれしくなる。話している最中「可愛い服だな」「アイシャドウ素敵」とずっと思っていてもそれを言うタイミングを逃してしまって、そのまま必要事項だけ話してさよならしてしまう。きっと多くの人に、「愛想がない」「気が利かない」と思われているだろう。いや、心の中では褒めてたんですと言っても言葉にしてなかったら意味がない。お医者さんにも「感謝が足りない」と叱られたことがある。私が「ありがとうございます」と余り言わないかららしい。お医者さんには感謝しているし、診察の最後には必ず「ありがとうございます」と言っているのだがそれだけでは足りないようだ。それからは「先週先生の出してくださったお薬のおかげで良くなりました。大変感謝しております」と何度もぺこぺこしながら言うようにしている。どれくらい言ったら感謝している感じが出るのだろう。もしかしたら言い過ぎもわざとらしいのかもしれない。この塩梅が難しい。お医者さんにはいつも「君は相当変わっている」と言われている。
人とは滑らかに話すことができないのだけど、動物や植物と話すのはとても好きだ。今は犬とウサギを飼っていて、あとベランダでは植物を沢山育てている。動物と植物を育てるということは、正に対話だと感じる。もちろん言葉は話さない。しかし、彼ら、彼女らは沢山話している。
犬がしっぽを振ると嬉しい時のサインというのは良く周知されているけど、他にも沢山のボディランゲージがある。例えば、犬の笑顔には二種類ある。楽しい時の笑顔と「ストレススマイル」だ。楽しい時は、犬の目がたれ目になって、開いた口からあまり舌が出ない。しかしストレススマイルは、目がいつもより見開いて、開いた口から舌がだらんと伸びている。耳もぺちゃんこになっている。多くの飼い主はこの両者の区別がつかなくて、どちらを見ても「犬が笑ってる!」と言ってしまう。
舌をペロペロ出してたり、あくびをしてたりするのは犬が他の犬に対して「リラックスしてね」と言っていて、これをカーミングシグナルと言う。優秀なトレーナーさんは犬に対してカーミングシグナルをすることで興奮状態の犬を落ち着かせることができるらしい。私もモネに幾度となくやってみたのだけど、何故か未だに通じない。
植物も毎日観察していたら、調子が悪い時、何となく葉っぱの勢いがないことがわかってくる。暑がっているのか、寒がっているのか、もしくは鉢が小さくなったのか、よく観察してみて条件を変えてみる。そういえば先日、すごぶる元気だったジュエルオーキッドという蘭が瀕死になった。ジュエルオーキッドは名前の通り宝石みたいに葉脈がキラキラ光る小さな蘭で、小型の水槽に入れ腰水(鉢をいつも水につけている状態)で育ててる。水も殆ど変えなくていいし、放っておいても良く育つ丈夫な奴だった。毎日水槽の上から、葉脈の光具合を覗いてはにやにやしていた。しかし、ある時期忙しくて2週間くらい構ってなかった。久しぶりに見たジュエルオーキッドは葉っぱがシナシナに反れてしまい、ほとんど黄ばんでしまっていた。愛しのジュエルオーキッドがこんなことに!!私の心の中のムンクが叫び出す。大急ぎで鉢を取り出し裏面を覗いてみる。すると鉢の裏から根がぼさぼさ出ており根詰まりしているようだった。根っこの一部はぶよぶよして腐ってた。株を鉢からだして、腐った根っこと痛んだ葉っぱをチョキチョキとハサミで切りながら、祈るような気持ちでもう一回植えなおす。もう、だめかもしれないな・・・、構ってやれたなかった後悔の念に包まれる。しかし、あれから一か月経った今、ジュエルオーキッドは復活した。前みたいに眩しいほどの光沢があるわけではなく、絶好調というわけではないが、何とか根は張ってくれたみたいだ。本当によかった。
去年読んだ、『ユマニチュードという革命』(イヴ・ジネスト、ロゼット・マレスコッティ著)という本が好きだ。認知症患者さんの中には、叫んだり暴力を振るってしまったり、いわゆる問題行動を起こしてしまう方がいる。施設側は問題行動を起こす人を無理やり押さえつけたり拘束したり、中にはそれがエスカレートして虐待にまで発展してしまうケースがある。この本は、問題行動を起こす本人を変えるのではなく、介護者自身が変わる重要性について書いている。介護者のまなざしや触り方、声掛けを初めとするユマニチュードという技術によって「あなたは大切な存在です」と伝え患者が穏やかになったり、中には寝たきりの人が立てるようになるのだ。著者は次のように言う。「認知症の人は攻撃しようとしたのではなく、自分を守ろうとしただけなのです。むしろ攻撃していたのはケアする側なのです」「ケアを受けている相手がもし叫んで抵抗するとしたら、ケアをしている私に問題があるのです。原因はケアする側にあるのです」「ケアを受ける高齢者は長年瞳を合わせられていません。「あなたは大切だ。価値ある人だ」と言われていないのと同じです。裸にされても、なお瞳を合わせられていないのです」
モネが噛み犬だった時、叱ったら叱っただけ悪化した(https://apartment-home.net/column/202104-202105/341-20210428/)。しかし私の接し方を変えて、噛まれないような工夫をしていくにつれて、噛まなくなった。更にはモネから私に寄ってきて撫でることを催促するまでになった。その時はユマニチュードについて知らなかったけど、我流でユマニチュードと同じようなことをやっていたんだと感じた。
我々は社会に入り、論理的に話すことが求められる。「話せない人」「何を言っているか分からない人」「怒ってしまう人」「暴れてしまう人」は社会から追い出されてしまい「問題行動」のラベルを張られてしまう。しかし、そのラベルを張っている我々は彼らと果たして対話をしようとしているのだろうか。動物や植物を育てていると、言葉を介さない対話のほうがずっとコミュニケーションで重要でないだろうかと感じてしまう。言葉を上手く話せることによって、何か重大なことを置き去りにしてしまっているのだろう。社会の片隅で、我々と違う仕方で声を挙げる人々から何を問われているか私達が向き合いだした時、私達一人一人の内側が変化始める。それが社会の輪郭を押し広げる一歩になるのだろう。