友人からの電話を受けて、改めて考えたことがある。ひとは、どれくらい痛みを共有できるのだろうか。自分が経験していないことの痛みを、どれくらい感じて、察してあげられるのだろうか。
わたしも、悩んでいる人に言ってしまうことがあるけれど、
だいじょうぶだよ、
泣かなくていいよ、
でも、よくよく考えたら、そんなこと、どの口が言えるんだろう。
大学時代、「あなたのこと、わたしは理解しているよ」という態度をとられたことがある。わたしは、自分の感じていることを、その人にきちんと話していなかったし、話そうとしたこともなかった。というより、わたし自身も、自分の問題をうまく理解できずにいたし、そのせいか、どう乗り越えていいのか判らない状態だった。気持ちの整理がつかず、人を拒絶していたようにも思うし、差し出された手を、払いのけていたという気もしている。
そのとき、「遅れた反抗期、思春期がきたんだよ」とわたしに言った、その人。わたしは、そんなふざけたこと言ってるんじゃないよ、と初めて人に対して不快感を覚えた。今思えば、あのとき感じた「不快感」は、その後のわたしの生き方を変えたようだった。人の言葉がすべて正しい訳ではない、と初めて思った瞬間だった。それまでのわたしは、世の中で間違っているのは自分だけだ、とどこかで思っていた。だから、自分はおかしいのだ、とも思っていたし、自分自身を責め続ける日々だった。
だけど、「じぶんは、あなたのことりかいできるよ」と、そう思うことを、ひどく傲慢だと感じた。その傲慢さを、受け入れられない、と感じた。
わたしと、そっくりな境遇の友人、嗚咽。電話越し、嗚咽しながら語られるその出来事を、ことばを通して追体験する。彼女の痛みは、わたしの痛みだ。わたしたちの間で交わされる、痛みの共有。これは、似た境遇だからなのか、それとも、まったく違う境遇の人でも、同じように感じ得るのだろうか。わたしが、あの人に感じた不快感は、「あなたになにがわかる」というものだった。だけど、嗚咽する友人に、同じことを言われていたらどうだったろう。同じ言葉に、同じような不快感を覚えたろうか。
それに、嗚咽する友人が、電話の相手にわたしを選んだのは、「あなたになにがわかる」と思わない相手だったからなのでは、と思う。自分のことを、このひとはわかってくれる、そういう気持ちがあったからこそ、と思う。そのことの根底には、似たような境遇、似たような経験、というバックグラウンドがあるからではないか。
でも、もうひとつの疑問が頭をもたげる。わたしの共感も、実は傲慢な思い込みに過ぎないのではないか、って。わたしだって、友人に対して「理解しているよ」っていう傲慢さを、押し付けているだけなんじゃないかって。
人と人との間に、線を引くのは、人だ。わたしにとって、不快感を抱いたあの人は、他者だった。わたしにとって、嗚咽する友人は、わたし自身のようだった。だけど、その線を引いたのは、わたし自身だ。線を引く、というのは、否応無しに選別するという、一種の暴力だと思う。他者に分類されたあの人の本心は、わたしにはわからない。どのような思いで、どのようなことを考えながら言ったのか、うまく想像できない。多分、目に見える情報、耳に入る情報だけが頼りだったはず。少ない情報をよりあつめて、自分なりに考えた結果だったのだろうと思う。その人の、そういった努力を、わたしは「あなたになにがわかる」と感じ、受け入れなかったのは、申し訳ない。だけど、受け入れられなかったのは、果たしてなぜだったのか。
だからこそ、考えてしまう。ひとは、どれくらい痛みを共有できるのだろうか。自分が経験していないことの痛みを、どれくらい感じて、察してあげられるのだろうか。「りかいできる、りかいしてる」という傲慢を、どのように乗り越えるのだろうか。
わたしはまだ、わからずにいる。