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3F/長期滞在者&more

年末に読んだ本と翻訳に関する話

長期滞在者

昨年末から年明けあたり、久しぶりに集中して本を読める時間があったので、買い込んでいた本を読んだのだが、寺尾紗穂、斎藤真理子、奈倉有里、となぜか女性の著者の本が続き、しかも良書ばかりだった。

西北ジュンクの音楽雑誌コーナーに置かれていてジャケ買い(表紙買い?)した寺尾紗穂『戦前音楽探訪』という本が面白く、ミュージシャンとしては名を聞いたことがあったが、調べてみたら音楽史のテーマのみならず南洋移民の歴史から原発労働者への取材、東洋のマタ・ハリこと川島芳子の評伝まで、幅広いテーマの著作がある多才な人なのだった。
『戦前音楽探訪』のあともエッセイ集『彗星の孤独』、『天使日記』と読みだすとやめられず、CDも何枚か買い、しばらくは寺尾紗穂漬けかもしれない。
(アルバム『北に向かう』所収の「安里屋ユンタ」、元歌の「サー安里屋のクヤマにヨ」の方ではなく日本語歌詞の「君は野中の茨の花か」の方で歌っているのだが、この歌詞で歌われる音源は細野晴臣のもの以外は嫌いだった。なのにピアノ弾き語りで歌われる寺尾紗穂盤は純然たるラブソングに聞こえ、「染めてあげましょ紺地の小袖 かけてあげましょ情けの襷」なんていうベタな歌詞が、はじめて美しいものに思えた。素晴らしいです寺尾紗穂)

斎藤真理子はハン・ガンなどを訳している韓国文学の翻訳家。奈倉有里はロシア文学の翻訳家である。
翻訳家の本が続いたのはたまたまなのだが、二人とも夢中になって読んだ。
斎藤真理子『「なむ」の来歴』、奈倉有里は『文化の脱走兵』、『夕暮れに夜明けの歌を:文学を探しにロシアに行く』の二冊。
言葉というのは論理の枠組みであり、檻でもある。人は言葉の枠内でしかものごとを認識できない。
翻訳家というのは、この枠組みを二種(以上)持っているわけだ。二つの枠があれば重なりあう枠もあり、はじめから相容れない枠もあり、そのズレは世界を倍に広げて見せてくれるだろう。そして何より、二つ目の枠組を持つものは、それぞれの枠組みを客観視もできるはず。翻訳家の文章が面白いのは当たり前なのかもしれない。
(例えばの話、前にふと、rememberという英語は「覚えている」とも「思い出す」とも使えるのが不思議で調べてみたら、そもそもrememberに二つの意味があるのではなく、日本語がたまたま「覚えている」と「思い出す」の二語に分けている記憶の作用をrememberという語で包括しているのだと知った。「忘れずにいる状態」を総じて英語ではremebmerで表し、日本語では「覚えている」「思い出す」の二つに分けている。これはその言語それぞれのクセのようなものであり、認識の仕組みの問題らしい)



偶然翻訳家の本が続いたので、今回はいくつか、翻訳に関する雑談をしようと思う。

まずは去年読んだ『べつの言葉で』(ジュンパ・ラヒリ)
読み終わるなりすぐまた再読したくらいに面白く、これはベンガル語が母語だが英語環境で育った著者が、あえてイタリア語を習得してイタリア語で小説を書くという(そしてそれが日本語に翻訳されたものを僕らは読むという)ややこしい言語状況のエッセイ&小説集なのだった。言語習得を湖を泳ぐことに譬える第一章の美しさから惹き込まれ、気がつけば二周目を読んでいた本。これは本当におすすめなので読んでみて欲しい。

続いて、今、朝ドラ『ばけばけ』で話題のラフカディオ・ハーン。僕は昔からハーンのファンなので彼の選集は複数のシリーズを持っている。
しかし昔からその訳が好きではなかった。河出の3巻選集はまだ良いとして、恒文社の平井呈一訳のものは、「小泉八雲=文豪」として扱いたい感じがありありで、とにかく訳が荘重で重々しい。
ハーン(八雲)というのは別に「文豪」ではなく、ルポタージュ的に日本を海外に紹介する文章を書いた人であるから、そういうものとして訳すべきだろう(来日前の彼の職業は新聞記者である)。
そんな中、数年前ハーンの『怪談 (KWAIDAN)』の素晴らしい訳が出たのだ。円城塔による画期的な翻訳。
ハーンの怪談は、少し英和対訳本を流し見(「読む」というほどの語学力が僕にはない)したことがあるのだが、例えば『耳なし芳一』ならば「Genji(源氏)」「Heike(平家)」といった固有名詞のみならず、「Kaimon!(開門)」といった言葉まで、効果として元の日本語を残している。ダン・ノ・ウラ。ミミ・ナシ・ホーイチ。カイモーン!
それを日本語訳するとOpen the gates! でもKaimon! でも「開門」なのであり、ハーンがわざわざカイモーン! という音を残したことが伝わらない。
円城塔は、ハーンがわざと日本語のまま記した言葉をカタカナで表現する。日本というベールに包まれた国の、よくわからない言葉をあえてそのまま残したハーンの意図を、カタカナで区別して僕らに渡してくれる。円城塔訳のカタカナを見て感じる障壁は、英語圏の読者が当時感じた謎の国日本への神秘感であり、今僕ら日本人もこの訳を読むことによって同じ距離感からハーンの文章に触れることが出来るのだ。
そう、こういうハーンを待っていたのである!
「読書メーター」なんかでこの円城塔訳本の読者レビューを見ると「読みにくくて途中で挫折」「奇抜さを狙った変な訳」とか悪評も目立つが、まぁそういう「文豪」的小泉八雲を求める人は平井訳でも読めばよい。僕は円城塔のこの本は素晴らしいと思う。

そして翻訳といえばL.M.モンゴメリ『赤毛のアン』
『赤毛のアン』といえば村岡花子の名が出るが、僕は昔から『赤毛のアン』の大ファンだが(ただし3巻目くらいまで)、村岡花子の訳はあまり好きではなく掛川恭子訳の方を愛読していた。村岡訳は何というか、アンのセリフが淀みなく流麗すぎて、彼女が普通に話している言葉と、大げさに演技的に話している部分の訳し分けができていない気がするのだ。掛川恭子訳はここを微妙に分けているので、あ、今アンに文学の神様が降りてきてるな、みたいな部分がわかりやすいのである。要するに掛川訳アンの方が性格的にあざとい(詩神に憑依されたフリして相手をケムに巻く感じ 笑)。
しかし、今は松本侑子の訳が決定的だと思っている。何だろう、この鮮やかな世界は。この「良さ」の説明をできず、ただただ良いから読んでみて! とSNSでつぶやいていたら、友人の菜桜子さんが「まるでリマスター盤のCDを聴いてるみたい」という名言をくれた。そう! それ! 何が違うのかわからないが、まさに解像感の上がったプリンス・エドワード島が眼前に広がる。全国1千万『赤毛のアン』ファンの皆様、ぜひにぜひに、松本佑子訳を読んでみて欲しい。
(ちなみに数年前NHKで放送されていたNetflix製作の『アンという名の少女』。原作から逸脱するストーリーが賛否両論で途中で打ち切りになってしまったが、あのキャスティングの素晴らしさ、アン、マリラ、マシューにレイチェル・リンド夫人にいたるまで最高で、あの打ち切りには「まだマシューも生きてるのに!(=まだ1巻分も終わってない)」と呆然とした。逸脱ストーリーの是非はともかく、あれ以上の配役はもう不可能だろう。)

掛川訳がアンの地の会話と演技的な会話を訳し分けている、という話の続きで書くならば、昔読んだ荒地出版社のフィツジェラルド短編集、どの話か忘れてしまったが、南部出身の男との会話で南部なまりを表現するために漫画的なズーズー弁で南部の男に喋らせており、興覚めしてしまったことがある。のちに村上春樹訳の同じ話を読んだとき、もちろん村上春樹はそんなことはせず、しかし見事に微妙なセリフ使いで南部の男を表現していた。僕は村上春樹の小説をあまり好きではないのだけれど、翻訳家としてはさすがだな、と思ったのだった。

ついでにもう一つ。2005年1月に岩波書店の独占的翻訳権が消失したサン=テグジュペリ『星の王子さま』。長らく岩波版内藤濯訳しか存在しなかったが、翻訳権が切れたと同時に雨後の筍状態で山盛りの翻訳版が出た。
検索から拾ってみると、三野博司、小島俊明、倉橋由美子、山崎庸一郎、池澤夏樹、河野万里子、野崎歓、三田誠広、奥本大三郎、浅岡夢二ドリアン助川、辛酸なめ子、等々々。
内藤濯の訳が古くさく、意訳されている部分も多いというので各社それぞれ錚々たるメンバーで新訳を出して話題になった。僕も発売日に池澤夏樹、その後倉橋由美子、野崎歓あたりも買って読んでみた。
結論、やっぱり長らく親しんだ内藤濯が一番良かった。
語学的文法的なことよりも、もうあの詩的な文体に慣れきってしまって代替不可能になっているのである。あれはもう内藤濯による日本文学なのかもね。



ちなみに僕は語学はからきし駄目である。
僕はかつて名前を言えば「へぇ」と感心されるような大学の文学部に入学したのであるが、そもそもその大学に合格したのがほぼ小論文の一点突破だった。
二次試験は英語と小論文の二科目で、もともと英語が苦手な僕はダメもとみたいな感じで受験したのだが(高校の進路指導の先生も「無理!」と止めた)、文章を書くことは得意だったので、もしかしてイケるかも、と受験を強行した。するとたまたまその年の英語試験が年来稀に見るレベルの難しさで、本来英語のできる人も点数が取れず、出来ない人との点差がつかなくて小論文勝負になったのである。
しかも小論文のテーマというのが「窓際の皿の上にタマゴが一つ置いてある。その情景を四〇〇字で記述せよ」みたいなクセモノ問題だった。今さらながら凄い出題だな。これで受験生の何を量ろうというのか謎ではある。怒った受験生もいただろう。
僕はといえば、問題を見た途端に「あれ、これ、みんな書けないのでは?」と意気揚々である。高校時代から文章を書くのは全く苦にならない人だった。むしろ楽しんで四〇〇字を埋めた。
で、予感の通り僕は群を抜く高得点で、基準に30点以上足りなかった共通一次と、二次の英語の低得点をカバーし、基礎力不足のまま入学してしまったのだ。
しかしこれをラッキーな話としていいかどうかは、単純な話ではない。そんな風に英語力が圧倒的に不足している文学部生だったため、最初の第二外国語・フランス語の授業で、いきなりフランス人教師が英語で授業を始めてびっくりし、三回目くらいで早々に脱落した。興味本位で受講した古代ギリシア語の授業も、暗号解読のような世界でついていけず、「僕は語学は駄目」という烙印を自分で押してしまった。今から考えればそんな極端な二科目で断ずるには早かったような気もするが、まぁそれくらいショックだったのだろう。
結局その大学には二年在学したが、ついに一つも語学の単位を取得できずに中退したのだった。人に聞かれれば「大学とソリが合わなかったので」みたいにカッコつけて答えていたが、まぁ何のことはない、圧倒的に基礎学力が足りなかったのである。南無。
まぁ大学やめてからの人生、劇団にいたり、カンテGやインド料理屋で働いたり、他にもいろんな職種で働いたり、ペンギン狂になって野生地調査まで行ったり、写真の世界に入ったり、いろんなことして面白く生きてはきたので、まったく後悔はないんですけど。

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[ 最近の写真から ]

カマウチヒデキ

カマウチヒデキ

写真を撮る人。200字小説を書く人。自転車が好きな人。

Reviewed by
藤田莉江

読書。このところ、書籍らしい書籍は年に一冊読むか読まないかというわたしです。翻訳の読み比べは、記憶にある限り人生に過去一作、2冊だけ。そして、こちらのほうが好きな訳、というのは容易く決まり、先に読んだ方が好きな訳だったため、あとから買った方は読み切ることなく実家かどこかに置いてあるはずです。どこにいったかしら。

翻訳の読み比べという楽しみがあるということをあまり理解していませんでしたが、なるほどなるほど、と、本文を読むごとに想像がかきたてられます。面白そう。

この作家の訳は、この作家が。というお決まりのタッグも世界には数多くあるのでしょうか。
映画でも、同じ俳優さんを同じ声優さんが吹き替えて演じたりしますよね。

なかなか読書自体が習慣から失われてしまい、読書の中でも翻訳の読み比べなんてのはツウの楽しみのように思えます。色々な世界がある。。。

読書がなかなか進まなくなって久しいわたしは、そこまでの楽しみ方はできないと思いますが、今年は5冊くらいは読めたらいいなと新年なので目標をたてたりしてみます。

皆様どうぞ今年もよろしくお願いします。

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