人間とは往々にして「盛る」ものである。誰しも覚えがあろう。
『太平記』では60万人の新田軍が24万人の幕府軍を攻めたりする。んなわけあるかい。狭い鎌倉市街で84万人の人々が戦っているさまを想像できるだろうか。
ちなみに鎌倉時代の日本の総人口は推計700万~900万人くらいだったと言われている。総人口の一割の人間の殺し合い。あり得ない。
『太平記』の兵数、死者数はざっくり10で割ればよい、といわれているが、下手すると100で割るくらいかもよ、と疑っている。この盛りまくり軍記が日本史の重要資料として扱われているのだからどうかしてる。
馬が千里を駆けたり、白髪が八千丈伸びたり、国の内外を問わず、人は何でもモリたがる。
史書に限らず、何でもいったん「盛りを剥がす」作業というのをするのが、総じて「学問」というものの仕事である。
動物学者の松原始に『カラスはずる賢い、ハトは頭が悪い、サメは狂暴、イルカは温厚って本当か? 』という、タイトル読むだけでその問いのおおよその結論がわかる本があるが(それぞれに「そういうわけでもないよ」が答え)タイトルでそれぞれの動物が言われていることはある種の「盛り」、ということになる。
ちなみにこの本はとても面白いです。ぜひに。
なぜに人は盛りたがるのだろうか。いやそもそも盛らずに語るということは可能なのだろうか。
「そんなん5億年前から知っとるわ」的な大阪人の誇張は、会話の潤滑油みたいなものであるが、実際、どの「盛り」も潤滑油的な働きをすることは間違いない。
あなたがいて嬉しい、という言葉がそこにあったとして、実際には対人的な感情というのは100%というものはないわけで、この言葉の後ろには
「あなたのこういう面は大好きだが、でもたまに○○なときもあるよね。でもあなたの大きな長所に比べれば、こんな些細な引っかかりを気にするのは無意味。なので総じて私のあなたに対する評価は、あなたがいて嬉しい、ですよ」
という詳細が隠れている。それをいちいち「あなたがいて9割がた嬉しい」などと正確に説明していては友情も恋愛も成就しにくかろう。これだって言うなれば90点を100点と言ってる「盛り」なのである。
人は何かを誰かに伝えるとき、何にせよ省略が入る。自己紹介せよと言われて、出生した病院と出生体重から話し始める人はおそらくいない。トピックをかなり絞るだろう。
そして人生を省略するとき、わざわざ汚点を拾って良かったことを削る人はいないだろうから、つまり人に何かを伝えるときというのは、その時点ですでに「盛り」が入っているわけである。盛らずに何かを語るというのは不可能といってよい。
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写真における「盛り」のことを考えてみる。
昨今流行の加工バリバリ彩度高めの写真たちは言うまでもなく「盛り」系であるが、ああいうものでなくても、世界を恣意的に切り取る、という意味からすればすべての写真はある種の「盛り」に類することになるのかもしれない。画面外の本当の世界はもっと雑多で多層で混沌としている。フレーミングやボケで背後の雑音を整理することは結果として主要被写体を(相対的に)「盛る」ことになろう。
そもそも写真でなくとも「見る」という行為自体が余計な雑物を整理してその視線の先の対象物だけを注視するということだ。
人の認識の仕方の話として、普段から人間は視覚によって入手した情報を無意識に取捨選択して、情報の大半をそのまま捨てているらしい。認識の直前に脳の働きによって認識の棚に並べる対象を絞っているのである。視覚から流入するすべての情報を脳が解析していたらシナプスが焦げてしまう。
人(脳)は見たいものを見て、必要なものだけを認識の棚に上げ、不要な情報は片っ端から捨てる。それが「認識」の仕組みだ。言うなれば人は物を見ているというだけである種の「盛り」を遂行しているともいえる。
ところが一方で写真は、その脳に盛られた部分を斟酌なく剥がすという作用も併せ持っている。
ただ「見る」ことと違って、写真は融通無碍な脳ではなく、頑固一徹杓子定規なフィルムやセンサーが受け取るからである。フィルムやセンサーは盛ってくれない。そのままを記録してしまう。
つまり、盛りつつ剥がすのが写真なのだ。
ファインダーを覗く目は事物を盛ろうとし、記録するフィルムやセンサーはその盛りを剥がそうとする。盛りと剥がしのせめぎあいとその齟齬が写真の面白さなのかもしれない。
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あ、そうそう、今年7月にギャラリー・ライムライトで兒嶌秀憲さんと2人展をすることになりました。
絶対に来てくださいね(まだ先ですけど)。
