この連載のレビュアーをしてくれている藤田莉江さんから、興奮気味に連絡があって、
「今、何必館でやってる展示見ましたか !?」
「良いと噂は聞くけど、忙しくて京都まで行く暇がない」
「ここ数年で一番いいもの見ました。行った方がいいですよ!」
フィンランドの写真家ペンティ・サマラッティの写真展で、来週12日までだから何とか行って! と言われても、毎日夜遅くまで残業の上、休みまで返上しがちな繁忙期である。春の撮影ラッシュに押されてずれた仕事が、毎年6月頃に河口の砂洲のように堆積するのだ。今はその堆積に埋もれかけてもがいている時期である。
しかし莉江さんがそこまで言うのだから、そりゃ良いのだろう。なんとか無理して一日休みを捻出した。
コロナ騒動で、電車で1時間強の京都ですらなかなか出かけなくなってしまっている。数年ぶりの京都である。
何必館(京都現代美術館)もいつ以来だろう。
ペンティ・サマラッティはフィンランドの写真家で、僕は今回の展示まで名前も知らなかったのだが、莉江さん以外にもあちこちから高評価を聞いていた。
端正な構図のモノクロプリント、王道的な風景写真が多い。動物好きなのだろう。画面によく動物(特に犬)が登場する。クーデルカを彷彿とさせるパノラマ・フォーマットも。
熟考された撮影を思わせ、反射神経的なものを前面に押しだした感じには一見見えないが、実は絶妙な瞬間を捉えていて見事だ。ちょっと出来すぎて嫌味に感じるくらいである(笑
しかしその「出来すぎ」感をうまく緩和してくれているのが、おそらく中判カメラを使っていると思われる、絶妙な画面の「粒」感だ。
美しいプリントではあるのだが、大判カメラのような粒子が溶ける方向の諧調美ではなく、あえて粒子を立てて描写していくような、ある種の野趣味を纏っているのがかっこいい。
変な言い方だが、プリントが綺麗すぎなくて良いなぁと思った。
大きく引き伸ばされた水鳥や羊の群れの写真の、粒子のざわつく感じが動物たちの息遣いのように思えてぞくぞくする。なるほど莉江さんが唸るのがわかる。凄い写真だ。見ていて息が止まりそうになる。
彼女もこのぞくぞくざわざわする感じを誰かと共有したかったのだろう(僕以外にもあちこちに声をかけまくっていたようだ 笑)。
1階展示室の大伸ばしのプリントを見たあと、階上へ上がっていくと、小さめのプリントで揃えられたシリーズがあり、今度は一転して中判カメラの情報量が緻密に凝縮された感じのプリントになる。
そもそもネガフィルムから引き伸ばし機にかけて拡大プリントされる写真は、決まった大きさというものがない。絵画のようにはじめからこの号数のキャンパスに描く、というものではなく、露光された絵柄自身が要求する大きさというものがあり、その要求に従って引き伸ばされる、というのが本来の理想である。
展示する際は群の写真としての各写真相互の大きさの統制というものが加わるから、100%「そのネガが要求する大きさ」にはならないかもしれないが、「ネガの要求」を容れるか容れないかまでを含めた勘案が、展示者の演出に委ねられる。
小さいプリントの凝縮感というものは、これはこれで見るものに違った緊張力を強いるもので、大きなプリントとは違った魅力もあるのである。情報量を考えればもう少し大きくプリントしてくれればいいのに、というような「ちょっとだけ小さい」あたりが、実は一番見る人の凝視を引き出せたりする。そのあたりの計算も絶妙に思えた。
大きなプリントのざわめきと、小さなプリントの緻密感、両方に浸って体力も奪われるのだが、もちろんこれは心地よい消耗である。良いものを紹介してくれた莉江さんに礼の念を送りながら、展示を堪能した。
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ところで何必館の発行する図録写真集は以前から印刷・造本の評判が良くて、今回この展示を見に来れても来れなくても、写真集だけは注文するつもりでいた(何必館への直接注文で購入できるのである)。
受付にあった見本を見てみると、やはり今回も素晴らしい印刷である。躊躇なく購入する。
本当に美しい印刷なのに、奥付を探したが印刷所の名前が出ていない。これは社名を記して顕彰すべきではないだろうか。
実際のプリントを見て感動を覚えた羊や水鳥の写真を、今写真集のページの中に探してみる。もちろん実物より縮小された図版として中に収められているが、実物を見たときのあのざわざわした感じが、ちゃんと小さな印刷の中に込められていた。これはとても難しいことなのではないかと思う。
そもそも印画紙に銀画像として定着させられた写真と、インクで紙に刷られた印刷が、同じものを表現できるはずはないから、横に並べて目を凝らせばいろいろと違いもわかるだろう。
だが写真には写真としての、印刷には印刷としての表現の幅というものがあり、よくできた印刷は、オリジナルとそっくりではなくても、同じ気品の表現を可能にするのだ。
それを知ったのは、昔買ったサラ・ムーンの『COINCIDENCES』という写真集だった。
大丸ミュージアムだったか、初めてサラ・ムーンのプリントをナマで見たとき、打ちのめされるほどに感動してしまった。
僕も暗室技術はそこそこ持っているし素人ではないのに、何をどうしたらこんなことができるのか、さっぱりわからないほどに高度な技術が投入されている。間近に目を凝らしても、その秘密がわからないのだ。
実際はサラ・ムーン本人ではなく、専属の暗室マンがいるわけだが、そんなことは何の問題にもならない。自分の理想を形にしてくれる職人にちゃんと出会うのも才能のうちだからである。
その会場で、この『COINCIDENCES』という大判の写真集を買った。印刷という別手段でもいいから、さっき見たとんでもない世界を所有しておきたかったのである。
この写真集がまた素晴らしいものだった。印画紙と印刷は違うものだけれど、違う手段を用いながらも同じ世界を近く表現できるように詰められた技術。暗室マンへの信頼と同じ信頼を、サラ・ムーンは印刷の技術者にも預けているのだろうと感じた。
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写真集には大きさの上での不利があるけれど(いろんな大きさで展示可能な写真が、判型の都合で揃えられてしまう)、写真集でしかできないこともある。
展示の写真にはない「ページを繰る」という触感が、「視る」上に重なる。手で触れられるというのは、額装の写真展にはない快の感覚をもたらすものである。展示写真では歩をずらすことによって次の写真に進むけれども、写真集は手で繰るという、一段意志的な所作が要求される。刷られた紙の質感も感じられるし、インクの匂いまで感じられることもあるだろう。
そう考えたら、僕が本当にやりたいのはどっちなんだろう。
壁面展示なのか、ページを繰ってみる写真なのか。
去年お仕着せのオンデマンド印刷とはいえ、何冊か写真集を編集して販売するという経験をした。あれは楽しい作業だった。あれを、もっと自分の意図を反映してくれる印刷で作ることができたら・・・。
いつかちゃんとした印刷で写真集を作ってみたい。そういう思いが、何必館のペンティ・サマラッティを見て、そして写真集を見て、ふつふつと湧いてきたのだった。
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ペンティ・サマラッティ写真展
何必館・京都現代美術館 6/26日まで延長展示中です。
http://www.kahitsukan.or.jp/frame.html
(追記 7/10まで再延長だそうです)