雨の日はべつに嫌いではない。写真を撮るという点からすれば、雨はいつもと違う光の様態を色々見せてくれるし、見慣れた町の表情も変わって見える。
ただ、遅めの梅雨入りをして、この先一週間以上雲と雨の絵ばかり週間天気予報に並ぶのを見、九州の方では大変な水害が起きたなんてニュースを聞くと、さすがに気持ちは沈む。
去年は僕らの住んでいる地域でも異常な長雨と降水量で大変な目に遭ったのだった。
そう、ちょうど一年前だった。
たまたま豪雨のさなかに酷いぎっくり腰を発症した僕は、杖をついて1m歩くのにも10秒くらいかかるような状態に陥り、いつもなら数分で着く病院行きのバス亭に30分以上かかって全身バケツから水を浴びたかのような状態でたどり着いた。
病院からの帰りには交通機関が完全に麻痺し、立ち座りすらできないものだからタクシーも使えず、雲霞のごとくに人の充満したバスターミナルで押されぬようバス乗り場の壁に体をくっつけながら悶絶の4時間を過ごした。
そんな思い出もあるけれど、まぁ、普通の量で降る限りにおいては、僕は雨はべつに嫌いではない。
5年間乗り倒してきた前の自転車がついに悲鳴を上げ、フレームからギチギチと亀裂のあるような音が聞こえ始めたので、さすがにまずいと思い、とうとう新調した。
泥よけ完備、多少の砂利道も走れる太めのタイヤを履いた自転車である。雨の日も走れる。よく走る川沿いの道で舗装路を外れて砂利道を走ってみても楽しい。
冬は濡れたら寒いということもあってなかなか雨中に自転車に乗るのも勇気がいるのだが、今の季節は濡れても凍えない。透湿性のあるレインウェアも最近安く買えたし、よほどの強風をともなわない限り雨でも乗って出る。
河川敷の自転車道を走りながら濁流うねる雨後の河を眺めるのは楽しい。もちろん危ない水位のときは行かないけど。
いつもの藻川沿いの土手道を、雨の夜、レインウェアの蒸し暑さに耐えながら走る。
ただでさえ不気味で美しい中洲の黒黒とした影が雨に靄ってより怪異に見えたりする。見とれて土手道の端から脱落しないように気をつけなくてはならない。
そしてさすがに強く降る夜は、いつものように重めのギアでぐんぐんペダルを踏むというわけにもいかない。ブレーキも効きが悪くなるし、レインウェアのフードで耳を塞がれるからいつもより音も聞き分けにくい。
ゆるく走る。当然景色もゆるく流れる。黒い中洲群がゆるく流れ去る。聞こえにくい音と相まって、少し遠い世界の風景のようである。
こういう日に自転車の前ラックの防水カバンに放り込んでおくのは、古い設計のレンズをつけた、これまた少し古めのデジタルカメラである。
フィルムカメラ時代に設計されたレンズは、フィルムという度量の広い感光剤の性質に合わせて、今のレンズほど厳格な光路を要求されない。
デジタルカメラの受光部に整然と並んだ千数百万個の素子は、レンズを通ってきた光をまっすぐ受け止める能力には長けているけれど、斜行してきた光は普通に足りない光量としてカウントされる。フィルムのような物理的な厚みがないから融通が利かないのだ。
なので、デジタルカメラに古い設計のレンズを付けて撮ると、光が斜行する画面の周辺が暗く落ち込んでしまう。
そういう描写の不明瞭さが、雨の日のゆるく遠い景色に乗算的に効果を被せてくれるのが良い。
雨は嫌いではないといいながら、気がつけば濡れて自転車に乗りながらつい口ずさんでいるのは、中島みゆきの『おまえの家』とかイルカの『雨の物語』みたいな古い曲で、しかも物哀しい歌ばかりだ。
別にふだん中島みゆきとか聴かないくせに、言葉のリンク力というのはすごいものだ。気がつけばいつの間にか反射的に口にしている。
あの『おまえの家』に出てくる「おまえ」は音楽をあきらめた人で、歌う主体である「あたし」は音楽の仕事に向かう場面で曲が終わるから、今でも音楽をやっている人(中島みゆき本人)である。
今も続けている人が、諦めてしまった人の家を訪れるという、けっこう残酷な歌でもある。
でもコンロの青い火を二人で見ているとか、やかんの音に笑うとか、場面描写が絶妙で、やっぱりとってもいい歌だな。
イルカの『雨の物語』はもっと直球に寂しい寂しい歌である。僕が小学生くらいのときの歌だが、今でも歌詞を覚えている。暗い曲が好きな子供だったようだ。
作詞作曲は伊勢正三。名曲である。
ところで「嫌いではない」のであって、決して雨が大好きなわけでもない。
四十日四十夜降り続いて地の果てまで水が満ちるがよい、などと思っているわけでもない。
蒸し暑いレインウェアも着ずに、自転車のサビ止めの注油などにも気を使わず、どこまでも漕げるほうがそりゃー良い。
早く梅雨が明けないだろうか。
今日も雨だ。
model : aoko