デジタルカメラの新しいテクノロジーとして「顔認識AF」(カメラが人の顔の位置を自動で検出してピントを合わせる)というのが出てきたとき、素人用カメラのお遊び機能だと思って気にもしなかったのだけれど、知らぬ間にプロ用の一眼レフにまでその機能が侵入してきて、ポートレートのプロたちが顔認識AFのさらに上をいく「瞳認識AF」をガンガン使って「便利だよ~」とか言ってる。
(お仕事的)ポートレートのフォーカスは目に合わせるというのが基本で、(奥行きがある場合には手前の)目にさえピントが合っていれば、極端な話、あとはどこがどれだけボケていようがポートレートとして成立するが、逆にその一点を外せばその写真はどんな良い表情であろうがゴミクズとなる。
ちょっと前まではピントを眼球に合わせるかまつ毛に合わせるか、なんていう職人芸的技量にカメラマンたちは腕をふるっていたわけだが、しかしそんなのも「カメラにお任せ」な時代になってきたわけである。
むー。失業も近いかもな。
というわけで僕も仕事で人物を撮る。
なんせ仕事の写真は歩留まりが大事。オートフォーカスで目に合わせたあと、自分の体を前後に揺らせてミリ単位のピント調整をする、なんてことを一日中やってたら目と脳と腰が爆発してしまう。
それをカメラが勝手に捕捉してくれるとなれば、そりゃこんな楽なことはないよね。
・・・などとは本当は思っていないが。
まぁ、それはそれとして。
カメラだけでなくSNSやセキュリティの分野でも活躍する「顔認識」さらに「顔認証」というのがどういう仕組みなのか、実のところよく知らないわけだが、知らないといいつつ想像力を駆使するに、おそらく顔の中で一番コントラストの生じる白目と黒目の境を検出して、それが二か所横に並んでいればそれを「両目」として認識、あとは両目を起点とした位置関係から輪郭や口なんかを識別するのだろう。そして、その位置関係の微細なデータから類似のパターンを蓄積し、前回登録されたデータとどこそこ何十%以上合致するので、これはカマウチヒデキという男の顔だ、という感じだろうか。
実際もっと昔からプリクラは目だけ検出してデカ目にしたりしてるから、目の検出なんてもっと単純な仕組みかもしれないけど。
そのうちあれですね、首相官邸近辺を通行する人の顔を即座に分析し、目と眉の間隔から不機嫌度合いを判定し、ちょっと署まで来てもらおうか、みたいな時代が来るのかも。いや、来るだろうな、これは。
入学式や卒業式で君が代を「嫌々歌っている」顔を認識されて減給される教師とかね。
書いてて胸くそ悪くなってきた。
冗談半分で書いているようにみえて、実はちょっとこの「顔認証」のことを、最近けっこうまじめに考えているのである。
瞳AFバッチリのSONYのミラーレスカメラでも買うか、とかそういう話ではない。
僕ら人間の行う「顔認証」というのも、結局コンピュータと同じようなことをしているんだろうな、という話。
目があって鼻がある。その周囲に輪郭が囲み、その位置関係の蓄積から、僕らはAさんとBさんを見分ける。
Aさんがいきなり髪形を変えてきても、Bさんが日焼けで赤銅色の顔色になってしまったとしても、僕らはAさんをAさん、BさんをBさんだとわかるだろう。
髪形や顔色などは付帯情報で、やはり「目鼻立ち」を一番の判別基準にしているような気がする。
5年会わなかった友達が再会してみたら激太りして別人になっていたとしても、わからないくらいまで太るというのも難しそうだ。とすれば輪郭というのも付帯情報であり、キモは目鼻ということになる。
極端に人付き合いの悪い人であっても、「知っている」というだけならば誰でもおそらく数十人とか、もっと多くの人の顔を「知って」いるだろう。
それはほぼ目鼻口眉あたりの情報の集積から各人を判別しているわけで、顔認証システムが凄いといっても、実は人もみな普段から無意識にやっていることだと気づく。
AI化されてはじめて意識される人間の認知の仕組み、である。
さっき冗談半分で書いたが、目と眉の位置関係から不機嫌度合いを判定、なんていうのは簡単なほうだし、「あの人、笑ってるようで目が笑ってないね」なんていうことがわかってしまうのも、我々、普段から相当に感度の高いセンサーで顔のパーツ位置情報をとり込み続けているということである。
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話が飛んで申し訳ないが、例えばドラえもんに出てくるスネ夫、ジャイアン、のび太の、顔とキャラを交換可能か、を考えてみる。
スネ夫はジャイアン役をできないし、のび太役もできない。ジャイアンがスネ夫の役回りをするのも不可能だ。
スネ夫はスネ夫の顔をしている。
多くの人がスネ夫的人物を、ああいう顔だと認識している。
これは、今まで会ったスネ夫的人物の顔つきになにがしか共通の傾向があると考えられ、そういう各人の中の統計から組み上げられたものが藤子不二雄の筆で具現化したのだ、と思われる。
もちろん、スネ夫的人物の戯画であるスネ夫は、スネ夫的人物のスネ夫的部分を相当にデフォルメされているから、スネ夫的人物像に戯画としてのスネ夫像が縒り合されて、強固に大げさに「傾向」を補強し、実際のスネ夫的人物をより大げさなスネ夫的性格に規定してしまう力学が働く、ということも否定できない。
スネ夫的人物は元から本当にスネ夫的な顔をしているのか。
スネ夫的な顔という規定がスネ夫的人物を作ってしまうという流れもあるのではないか。
そもそもスネ夫的な顔とは、本当にスネ夫的であるのか。
何を言ってるのか正直自分でもわからなくなってきたが、でもなんか、ここ大事な気がする。
スネ夫的人物のスネ夫的部分とは何か。
小賢しいとか、強きになびくとか、利聡いとか臆病であるとか。
とある理想的な人物像があって、それに対する反語的な性格を寄せ集めて作ったものがスネ夫的人物である。
作られたものの反語なのであるから、理想的人物像の空虚さと相俟って、スネ夫的人物像というのも希薄だ。先月のドーナツの穴の話を書いたが、スネ夫の反語たるべき理想的人物像すら架空なのだから、スネ夫はドーナツの穴ですらないかもしれない。穴も土手もない。
スネ夫は実在するのだろうか。
小賢しいやつ、というのはいるし、強きに媚びへつらうやつ、というのもいる。しかし本当にスネ夫的人物はスネ夫的な顔をしているかというと、実のところそうでもない。
本当にズルいやつというのは実はズルそうな顔をしていなかったりする。
スネ夫・ジャイアン・のび太という性格から描き出された類型顔というのは、ある程度の根拠があるからこそ作り出されるのだと思っていたが、つきつめていくと、そんな根拠なんか怪しく思えてくる。
しかしたとえば僕らのような(営業写真の)仕事は、「スネ夫的な部分を写さない」ことで成り立つともいえるわけである。
見るからに悪代官のような強面の人物に選挙用のポスターを撮ってくれと依頼されれば、僕らは全力でその人物の表情から悪代官的なものを排除して撮ろうと努力するだろう。しかしその「悪代官的」な顔というのも、実際彼がどれだけ悪代官的なのかとはあまり関係ないのかもしれない(し、関係あるかもしれない)。
ありもしない架空の「スネ夫的部分」(「悪代官的部分」でもいい)を排除することで成り立つ仕事に従事している、と考えると不思議な気がする。
みなが思い込んでる「性格良さそうな」顔とか、ないものに似せることを要求されるわけだから。
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で、何の話でしたっけ。顔認識・瞳認識AFのカメラを買うかって話でした?(違います)
いずれにせよ、人の顔つきとか表情を類型化することの意味を、ちょっと考えてみたいなぁと思っただけのことなのでした。
う〜ん、うまく着地できてませんね。こんなに長く書いたのに。
すみませんっ(平謝