水炊きの豆腐を取り皿の中で冷ますために四つ割りにしながら思い出したのは、たぶん小学校低学年か中学年の頃のこと。
同じように熱い豆腐を箸で切りわけ、冷ましていた。
豆腐は丸ままにしておくよりもいくつかに割っておいた方が早く冷める、という小学生なりの経験により、なんとなくそうしていたのだろうが、それを見ていた父が
「どうして豆腐は割ったら早く冷めると思う?」
と聞いてきた。
「知らない」
「割ったら豆腐の表面積が増えるから」
表面積、という、普段使わないけれどもなんとなく意味がわかるかしこまった言葉で、普段ちゃんとは説明できないがなんとなく理解しているものごとを説明されて、
「豆腐は割ると早く冷める = それは表面積が増えて熱の放出が早くなるからだ」
という「理屈」が、すとんと小学生の僕の頭に落ちてきた。
なぜかこの話は妙にインパクトがあって(だから今でも覚えているわけだが)、言葉で説明できないけれど、経験からなんとなくそうしていた時期と、言葉によって理屈が頭に入って以降では、同じ熱い豆腐を見ても、もうまったく世界が違ってしまったのだ。
表面積が増えるせい、という言葉を知らない以前の自分を、思い出すのも難しい。
ことばって凄いなと思うし、怖いものだとも思う。
豆腐の表面積が増えると早く冷める、という「ことば」は大事だが、できれば理屈を知る以前の「なんとなく」な状態でシャッターが押せたらな、という・・・唐突に写真の話になってアレなんだけれども、なんとなく、そういうことを思ったのだった。水炊きを食べながら。
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そもそも、たとえば一体誰が、色のこと、光のことを「わかっている」というのだろう?
光源から発した光が被写体に当たった、その反射光を人間は見ているにすぎない、ということだけでも、十全の意味で「理解」している人なんかいるのだろうか?
実のところ僕にはちゃんとわからない。そういう「言葉」を理解した気になっているだけである。
被写体に当たった光は、当然ながら四方八方に反射する。その四方八方に飛び散った光の、自分の眼球の方向に反射してきた光だけで、その人にとっての視覚的世界は形成される。
その四方八方の反射の結果をいろんな人間が共有し、共同幻想的に「世界」を構築しているということに驚きを感じるし、世界とはそういうなんだか頼りない土台に建ってるだけのものなのか、とびっくりする。
どこかの星の小さな王子にキツネは「大事なものは目に見えない」と教えるが、いや、大事なものもそうでないものも、無差別に飛び込んでくるから、大事かどうかわからない、というのが正しい。
それを無理に言葉に「翻訳」したものを、僕らは「見た」気になっていて、「大事なもの」は言葉で規定されて、とたんに大事かどうかもわからなくなってしまう。
もとから「言葉」の拘束力から逃げ出た光景にこそ、キツネが言うところの「大事なもの」は宿るのではないか、など信じている糞ロマンチストたちがいる。僕もその一人だ。