「写真」は伝達手段としては非常に効率の悪い代物で、むしろ「伝わらなさ」そのものの比喩としての機能の方が上かもしれない。
もちろん悲観的に言ってるのではなくて、「伝わる」という言葉の安売りに辟易しているからで、伝わらなさを考える契機として写真があって良いのでは、と思ったのだった。
写真というのはもともと言葉とは伝達される情報の種類や方法違うものだから、言葉では掬いきれないものも放り出す。
それは言葉なんかより開けっぴろげで野放図で、言葉より雑でとりとめがなく茫洋としたものだ。
その茫洋としたものを言葉に翻訳しようとすると、その茫洋の大半は取り残されて捨てられてしまう。
写真を言葉になんかするな、と声を大にして言いたいが、それはとても時流に反するものらしく(笑)、自分の言葉で説明もできないものをどうして自分のものだとして世に出せるのか、なんて大上段に攻められると、こっちは余計に「はいはい、僕のはそんな大層なものではございませんので」と拗ねるしか手がない。
写真のわからなさというのは、要するにこの世の中のわからなさをそのまま写しただけの話であるから、それをわかるように説明しろという方がおかしい。
だって世界はわからないでしょう?
それをさもわかったような結論をくっつけて写真に添えて、理屈の図解にすることだけが写真の価値だろうか、と拗ね者の僕は愚痴るわけです。
なんでみんな「わからない」ことをそのまま「わからない」と受け止められないのだろうか。わからないことがそんなに不安なのか。いやたしかに不安ではあるが。不安ではあろうよ。それにしてもだ。
わからないはずのことを無理に言葉に翻訳して、大半をザルの外に散らかして、ザルに残った滓だけでわかったような気になる、そのことの怖さのことを考えないのだろうか。
言葉なんて、本当に雑なものだ。雑とわかった上で、雑な言葉同士でしかわかりあえない。それを当たり前と思うところからしか話は始まらない。
そういう風に、「わからない」写真は言ってるんだよ。
違うんかな。
世の中のわからなさを一つ一つ確認していくような、そんなもんでいいのではないかと、まぁここにも今まで何度も同じようなこと書いてるかもしれないけど、僕はやっぱりそう思うわけです。写真ってのはよ。