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Mais ou Menos #19 —裏でも表でもないわたしたちの往復書簡ー

Mais ou Menos

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Pちゃん

早いもので、もう東京に来てから一ヶ月が過ぎました。わたしも就職が決まって、一安心しています。とはいっても、大変なのはこれから。今までやったことない新しいことだから、緊張してはいるけれど、日々頑張っていこうと思います。入るのに苦労したけれど、新しい家にも慣れてきたしね。様々な大変さがあるけれど、わたしたちはいろんな大変さにぶつかる分、前に進んでいけるので、バネにしていこう。

先月から、ブラジルに渡った日本人移民のドキュメンタリーを立て続けに観に行って、いろんなことを考えるきっかけになったね。正直わたしには、向き合うのが怖い領域だったから、最初はどうなることかと心配でした。自分が触れたくない領域に足を踏み入れていくわけだから。案の定、何度も何度も込み上げてくるものがあって、あぁしんどってなってた。共感もするし、目を背けたくなることもある。

でも、これもしっかり向き合う必要があるのだと思っています。いつまでも無視し続けることができないことってあるんだなぁと最近強く感じます。人それぞれタイミングがあるけれど、今がわたしのタイミングなのかもしれない。このタイミングを生かして、自分の人生を変えていきたいというのはある。 今回選んだ仕事も、自分が「弱み」だと思っていたことを、強みに変えたいと思って選んだわけだし。自分のご先祖さまたちがどんな経験をしてきたのか、親世代のこと、わたしの世代のこと、日系移民についてもっと調べて、自分の様々な「おそれ」に立ち向かっていく年にしようと思うよ。そばで見守ってもらえたら嬉しい。

あ、話は変わるけれど、この間古着屋さんで買ってた白いシャツ、すごくよかったね。まさかシャツに書いてあったURLが射撃場のアドレスだったとは…海外の古着ってそういうのが面白いよね。わたしも今は白を着たい気分。新緑の季節には、白がよく映えるもんねぇ。

新しい仕事に慣れるまで少し時間がかかると思うけれど、いつもの通り二人三脚でゆっくり歩んでいこう。

Maysa
2016.05.07 Sat.
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まちゃんへ

東京に来て1ヶ月。早いようで、家の中を片付けたり、買い物に行ったり、日々のことはまだまだ慣れていない部分も多い気がします。でも、いつもの私たち通り、ぼちぼちやっていこう。

東京に来たら、見ることができなかった映画を見に行こう、というのが一つの目的(目標)だったんやけど、下高井戸シネマで岡村淳監督の作品に出会って、ブラジルに渡った日本人移民が、自分にぐっと近くなった気がします。まちゃんはその移民の子孫なんやけど、私自身今までそのことをあまり意識したことがなかったし、そもそも日本人移民がどんな環境で、どんな旅をしてきたかを知らなかった。

私は、今回転職して、初めて世の中に公に自分のことをカミングアウトして、大げさではなく人生が変わったと思う。今までどこか自分のことを他人に偽ってきた感覚があったし、これは本当の自分じゃないという感覚があった。でも、本当の自分というものも何なのかわからなかったし、わからない存在こそが自分という感覚に今はようやく落ち着いた。

今年は、まちゃんと私が、“自分”についてより深める年になりそうやね。私が悩みながら自分を受け入れてきたのを隣でずっと見ていてくれたように、私もまちゃんのルーツを知る旅のお供をしたいです。自分は見守ることしかできないけれど、まちゃんの先祖や移民の歴史に興味があります。歴史に残らない歴史。私もブラジルにいつか渡るだろうと思っているので、他人事ではなく、自分のこととしてもこれから向き合っていこうと思う。

最近、白いものに興味がある。昔は黒だった。もちろん今も黒は好きやけど、白いものを使うことが多くなってきた。白いものを見ると気持ちが明るくなる気がするねんな。それで、白が多くなってきています。

連休明けからは二人とも仕事が始まるね。
気負いすぎす、ゆっくり行きましょう。

2016.05.07

P

Maysa Tomikawa

Maysa Tomikawa

1986年ブラジル サンパウロ出身、東京在住。ブラジルと日本を行き来しながら生きる根無し草です。定住をこころから望む反面、実際には点々と拠点をかえています。一カ所に留まっていられないのかもしれません。

水を大量に飲んでしまう病気を患ってから、日々のwell-beingについて、考え続けています。

PQ

PQ

ゲームと映画が好きです。
国籍も性別もない。

Reviewed by
西尾 佳織

先日読んだ多和田葉子さんの『ペルソナ』という小説に、ドイツに住みドイツ語で小説を書くトルコ人女性作家たちについて、ドイツに留学して研究する日本人女性が出てきました。
彼女は、ドイツ語を母語としない移民の人々による作品も、ドイツの現代文学を確かに構成する一要素であると考えている。
そしてそのことを、日本人の自分がドイツで研究したいと思っている。

でもなかなか上手くいきません。
例えば、「国民国家」という線の引き方に疑問を持たずに生きることが出来ている人たちからすると、彼女の立場には必然性が見えにくい。

日本では(なのか、他の国でも果たしてそうなのかは分かりませんが)、当事者性が重視されます。
当事者性の高い人の言葉は重い。
そしてその反対側に、「関係ない(薄い)ヤツはつべこべ言わずに黙っとれ」というのがあると思います。

でも本当にそう?(それだけじゃないんじゃないかって言いたい)と、最近私は感じています。

まちゃんが日系ブラジル移民のことを気にかけるのは、(おかしな言い方だなぁと思いますが)説得力がある。
でもPちゃんは?
大切な人のご先祖様という関係性は、若干遠い感じがします。
だけどPちゃんは、自分のこととして考えたい。
まちゃんが「そばで見守ってもらえたら嬉しい」と言って、Pちゃんも「自分は見守ることしかできないけれど」と言っていますが、明らかにそれ以上の熱で自分事として、Pちゃんは日系ブラジル移民に出会おうとしているように見えます。

人が、あらかじめ(たまたま)あてがわれたポジションから隣へ、外へ、手を伸ばして「ひと」と「わたし」を獲得していくその様に、惹かれます。

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