生後8ヶ月の子どもとの、せいぜい半径500m圏内で完結してしまう今の生活では、新型なにがしの影響なんてほとんどないかもよと感じている。幸か不幸か、社会との断絶はいま結構大きい。今日、息子と二人でポストまで楽しく散歩に出て、3月の陽気もあってか、大小の子どもが賑やかに遊ぶ昼間の公園の風景は結構よかった。義務教育のなかった頃の世界を想像する。ほんの100年前、子どもが家族のそばに居続ける暮らしはどんなだっただろうか。やっぱり一緒に働いていたりしたか。家事も家業も。家族との仕事は、悲喜交交、さぞ楽しかろう。私は家族で、そういう生活をしていきたい。
小学校にある頑丈なものと用務員さん
学校といえば、少し前に休日の小学校に遊びに行かせてもらったことがあった。久しぶりに訪れた小学校のドーンとした空間の面白さたるや。各学年の花壇や遊具がなんとも秩序立って、そしてよく手入れされてそこにあったのが印象的で、ああこれが、あのエネルギーの塊みたいな子どもたちが数百人単位で毎日やって来るのを受け入れて、そして生徒は毎年少しずつ入れ替わってもその場所にあり続けている、頑丈なモノたちだなと感じ入った。
目をかけて手をかけて場所を成立させる仕事
カラフルなペンキがいく層にも塗られた、つまりお直しされ保護され彩られた、金属の遊具。「楽しくのってきれいにせいとん」という看板のかかる、お手製の竹馬置き場。そして、それらを手掛けているだろう、用務員さんの道具や材料で占められたスペースを目にしたとき、ああ、用務員さんになる余生はいいなと思った。抽象的な言葉で表現すると、ひとつの場所に通い、そこをキチンとさせたり、補修したり、そこを居場所にする人を見守ったり、ああ、それは、私の好きな部類の家事やカフェ店員としての店番にも似ているかも。憧れる、庭師さんの仕事にも似通っているかもしれない。
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やかんのお直しを頼まれた
引っ越して間もなく1年ほどになるが、仲良くさせて頂いている、はす向かいさん(80)から「ちょっとこれ見てほしいねん」とやかんの持ち手の修理を頼まれた。我が家は一応、ちいさな工務店だけども、こんな気軽なお直しを頼まれる間柄になったとは感慨深い(強力接着剤でバッチリとめました)オダチンにお抹茶を点てていただく。京都での新しい友達、平均年齢は70〜80歳だけども、住んでいる町、西陣という場所柄、みんな元職人さんだったり(洋裁のプロ、和裁のプロ)、家業で何かをされていたり(木工屋さん、刺繍屋さん、鉄鋼屋さん)とか、私たちが家を少しずつ直して暮らしているのも、面白がって、上がり込んでのぞいてくれる。それで、細かいところまで見て、さすって、「ほぉ〜さすがやな〜」という言葉をかけてくれたり。反応が、明らかに、都会から遊びに来てくれる同世代の友人たちとは、違う。見ている世界が違う。
解像度があがるとどんな世界を見ても美しい
ご近所さんに上がり込んでほしくて、玄関土間にベンチを作った。床を直したときの下地材の残りを切って並べて、この町の住宅でよく見かける、格子の目隠しのような意匠のそれができあがった。じわじわと、この町や人の振る舞いが私たちの中にもインストールされていくようで面白い。しゃがんで顔を近づけて、木材1本1本の一辺一辺、面を取るためにヤスリをかける。幸運なことに、こういうミクロで確かな作業をする時間が少しずつ生活の一部になって、モノを見る、世界を見る、解像度がグンとあがったように感じる。この目で見ると、どんな世界を見ても、どこかしらに美しさを見出せる。そんな気すらするぐらい、今わたしは世界と出会い直している気分で暮らしている。