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来ぬ人を待つ

鍵を開けて 詩人が「しょぼい喫茶店」に立った日々のこと

「来ぬ人を待つ」カフェをひらいたのは、ちょうど一年前のお盆が過ぎたころだった。この国ではお盆と終戦記念日、それから一年でいちばんの暑さとが重なることになっていて、どうしても死のけはいが濃くなる。いる人といない人とが、いつもより曖昧に交差するような気がする。

「来ぬ人を待つ」は、ほかの場の詩企画にくらべるとやや地味だ。わたしを含む、その場にいる人全員で、「まだ来ていない誰かを待っている」というテイで過ごす。SNSで趣旨を発表して告知をしたとき、何人かに「ゴドーですか?」と聞かれたが、そのたび「百人一首です」と答えた。

実際には何かとくべつなことをするわけでもなく、雑談のあいまに時々「まだですかね?」「来ないですね……」と言い合ったり、新しいお客さんが来るとみんなで身を乗り出して入り口を見たりするだけだ。視線を集めた新しいお客さんのほうも企画を知って来ていたらしく、一同のリアクションを見てすまなそうに笑い、「すみません、僕です。まだ来てないんですね」と言う。

この日は、わたしからはできるかぎりなにも言わないことにしていた。「来ぬ人を待つ」の遊びかたがややわかりづらいので、人が入れ替わるとデモンストレーションの意味で「まだ来ないんですかね?」と投げかけるくらいで、あとはしずかにしていた。しょぼい喫茶店でわたしが営業をする時間は17時から21時半で、客席の後ろにある大きな窓から、日が暮れていくのが見える。暗くなってきて、ほかのお客さんが「来なかったですね」と言いだすと、「いやいや、まだあと一時間半ありますから」と答えた。

しかし、ラストオーダーが近づくとわたしは急に感情的になり、「なんで来ないのっ、本当にこのまま来ないつもりなの、こんなにみんなで待ってるのにっ」といって怒った。突然のことだったからか、その時間までのんびり残っていたお客さんたちはみんな笑い、それから「まあまあ……」とかいってなだめてくれた。

「来ぬ人を待つ」でひとつだけとくべつだったことは、普段は閉めてある店の入り口のドアをあけておいたことだ。しょぼい喫茶店のドアは手動で開ける窓のないもので、はじめてだとちょっと開けづらいと言う人が多い。だから、「来ぬ人」がいつ来てもいいように、その日だけは開けておくことにした。

基本的に、わたしのつくる企画には常に深い意味も意図もなく、お客さんとほとんど同じ立場で遊んでいるだけだったけれど、「来ぬ人を待つ」だけはちがった。わたしだけが別の意味を持っていた。だから「来ぬ人を待つ」について書くのは、その種明かしをすることになる。

「来ぬ人を待つ」より前、あるお客さんが、ドアの前まで来たのに帰ってしまったことがある。わたしが営業のお知らせに使っていたラインのアカウントにしょぼ喫のドアの写真が届き、ふしぎに思いながらわけを聞いたら「さっきドアの前までは来たけれどドアをあけられなかった」とメッセージが来た。

あわてて、無理はしなくていいけれど、もしよければ戻ってきてください! と返信する。べつに来たからといってなにがある場所でもないとはいえ、ある場所までわざわざやってきたのにドアを開けられなくて引き返すという経験は失望を生むのではないか、できるならそれは避けたほうがいいのではないかと思った。

無事に、というべきか、その人は戻ってきて、おだやかにお茶をして帰っていった。そのあとも何回か来てくれて、詩や声の話をした。

その人は、ツイッターでしょぼ喫を見つけてきたらしく、わたしにもアカウントを教えてくれた。それを見ていると、たまに自死の予告が流れてきてぎょっとした。何月何日に死にます、と宣言をし、その日になると「死ねませんでした」とツイートをする。それがときどき起こる。そのたびにその人の友人らしき人がリプライを送っていたし、波はあるとはいえ、多いときにはけっこうな高頻度だったので、わたしはだいたい横目で見すごし、期日になるとその人のページに飛んで「死ねませんでした」を確認してほっとしているだけだったが、いつもすこしだけ気にかけていた。

それが、去年のお盆の頃、はじめて「死ねませんでした」が来なかった。

予告されていた日が無言のまま過ぎてしまった翌日、わたしは義理の実家のお墓参りに来ていて、酷暑の墓苑にいた。書き込みを確認したくてもなかなか携帯を見られない状況で、お墓に花を挿し、線香をあげて、アリの寄る蝉の死骸を避けて歩いた。暑くて、暑くて、頭がおかしくなりそうだった。

木曜日になっても、とても喫茶店に立つ気分にはなれなかった。お客さんが来てくれたとしても、自分がおだやかに話す自信がない。企画を新しく作る気にもなれないし、かといって既存の企画をやるのもちがう。このお盆より前にはもうどうしても戻ることができないという気がした。考えた末に出てきた苦肉の策が、「来ぬ人を待つ」だった。

自死の予告をした日からツイートがないだけで、いなくなったと決まったわけではない。店をあけてさえいればまたふらっと現れるかもしれない。その可能性はかぎりなく低いような気もするけれど、ともかくいまは待つことしか考えられない。入ってきやすいようにドアを開けたままにして、なにもせずに、しずかに。

予告の日当日にツイートがあるといういつものパターンから大きく遅れた数週間後、「来ぬ人」は「生きています」とツイートをして、生きていた。わたしは大いに脱力して、そうなるといっそう無意味だった「来ぬ人を待つ」夜のことを思い出して笑った。笑いながら涙が出てしかたなかった。

数回会っただけのお客さんに、こんなに死んでほしくないのはどうしてなのだろう。相手がどのお客さんでもきっとそう思っただろう。自死や死そのものが悪いという決めつけはしたくないと思いながらも、気持ちが大きく揺れて、あれこれの後悔をし、待つほかのことが手につかなくなる。

「来ぬ人を待つ」に来たお客さんには、ひそかにそれに付き合ってもらうことになった。申し訳ないようにも思えるけれど、来るかもしれない誰か、会いたい誰かを待っている、という状況は、いざやってみると妙にしっくりきた。店を開けているあいだ、わたしたちはもともといつでもこうだったのではないか、とさえ思う。ここを求めている誰かが、わたしたちが会いたい誰かがここに辿りついてくれるのを期待して、わたしは店を開け、お客さんはわざわざ集まってくれているのではないか。

「来ないねえ」「遅いねえ」と言いあっているとき、わたしたちは祈っていた。死と不在はぞっとするほど強力で、祈るほかにしようがない。この「来ぬ人を待つ」以降、件のお客さんが生きていたとわかったあとも、自分は「来ぬ人」を待っているのだ、ということを、いつも意識するようになった。どんな企画をしていて、いつもどおりドアを閉めていても、どれだけお客さんが来たとしても、今ここにいない誰かのこと、二度と会えないかもしれない誰かのこと、そしてとても会いたい誰かのことを、わたしはいつでも待っている。

向坂 くじら

向坂 くじら

詩人です ときどき舞台や喫茶店のカウンターにも立ちます

Reviewed by
清水 健太

待つというのは、そうか、思うことなのだ。
何もしないでいるのとは違う。
会えるのを楽しみにしたり、心配したり、遠くから見守ったりすることなのだ。
 
待つことが人の幸せのかなりの部分を構成している、とすら言えるのではないか。
だとすれば、モバイルなメディアにより待ち合わせが味気なくなり、人よりもネット通販で購入した商品を待つことの方が多いような現状を、ただただ甘受していてはいけない気がしてくる。
それでも、私たちは今でも誰かや何かを待っているし、待たずにはいられない。
だから、「来ぬ人」をあえて待っていた向坂さんのように、待っていることを味わうような工夫や心がけの方に目を向けたいと思った。

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