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腹をくくって朝を待つ

鍵を開けて 詩人が「しょぼい喫茶店」に立った日々のこと

ひとつの場所に集まることが白い目で見られるようになってしばらく経つ。新型コロナウイルスの流行で、会うことはそのままあぶないことになった。

おたがいが無自覚に他人を感染させる可能性を持ち、誰の唾液も毒とおなじように扱われる。だからみんなマスクをし、レジのカウンターには透明なビニールの壁が張られ、そして、飲食店やライブハウスや美術館は扉を閉めた。

昨年十一月まで週に一回「しょぼい喫茶店」を開けていたわたしも、近ごろはずっと家にいる。リモートで働き、ビデオ会議アプリでワークショップや家庭教師をしている。

オンラインでワークショップをひらくのはおもしろいが、同時にどこか落ち着かない。参加者がいくら画面の向こうでうなずいてくれても、自分の声はまだ着地せずにどこかに行ってしまったように思えるときがあるし、プログラムを終えてアプリを閉じた瞬間の水が引いていくような無音にはぞっとする。もちろんそれでも何もしないでいるよりはずっといいんだけど、実際に同じ場所に集まることとはとても比べられない。

プログラムのあるワークショップならともかく、しょぼい喫茶店では、本当にただ単に同じ場所に集まっている、ということも多々あった。それでもそこに共有されているものは存在したし、失ったものに対する感傷かもしれないけれど、それはやっぱりオンラインでは生まれづらいものな気がしてならないのだ。

わたしがしょぼい喫茶店で作った企画のなかで、何もしない時間がもっとも長く過ぎるのが、「月曜日からの避難所」だった。

夜の十時から翌朝九時まで、ただ喫茶店の空間を開けておく、という企画だ。月曜日の朝に鉄道自殺が増えるという話を聞き、日曜日の夜から月曜日の朝にかけての致死的な時間を過ごせる場所を作ろうと思ってひらいていた。

とはいってもとくに何をするわけでもない。ただ夜通ししょぼい喫茶店にわたしがいて、お客さんがいる、というだけ。カウンセリングもしないし、ワークショップもしない。夜に来て終電で帰るお客さんもいれば、始発で来てそこから出勤していくお客さんもいたが、避難所にやってくるお客さんの大半は、夜を明かすのを楽しみに来ているようだった。

喫茶店で過ごす夜はひどく長い。もともと人の命を奪うあぶない時間だと思って始めたことがばかばかしくなるほど、しずかで、緩慢で、なにも起きない。

「彼氏とラインで喧嘩がはじまって夜更かしが決定したのでここでやります!」と言いながら勢いよくやってきた女性は、そのうち「勝ちました……」と言い残してカウンターに突っ伏して眠る。翌朝十時の飛行機でインドへ旅に出ることに決めたはいいものの、急に気が乗らなくなってとりあえず避難所に来たのだという青年は、机の上のスプーン置きを高く積み重ねて暇をつぶす。お客さんのあいだで怪談がしばらくつづくと、わたしもちょっとうつらうつらする。時計を見ても見ても時間が進まなくてみんなでうんざりするけれど、終電からも始発からも遠い時刻には、ただぼんやりするしかない。

月曜日の朝から避難するための場所だったはずなのに、みんな、なんとなしに朝を待っている。

そのうち日が昇ると、だれかが「眠気覚ましますね」とかいって窓をあけ、上半身を早朝の薄青い風に当てはじめる。そのすがたが心地よさそうで、何人かが真似をする。カウンターのなかから、干された洗濯物のようになったお客さんたちの背中を見ていると、笑えてくる。わたしたちはいったいなにをそんなにがんばっているんだ。

ソファで眠っていた人がぬっと起き出して化粧をし、出勤する。入れ替わりに徹夜明けの女装の人が迎え酒をしに入ってくる。そのころには外に人影が出始め、スローモーションに思えた夜が嘘のように、やがて避難所は閉じる。

あのときの店内で共有されていたのは、なにも個々の死にたさやパーソナルな問題ではなく、もっとささやかで、どうでもいいことばかりだった。それはたとえば食器を洗う水のにおいだったりとか、代わる代わるトイレに立つ足音の周期、ひとつずつ消えていく向かいの道の明かりとか、そんなようなもの。当時には意識していなかったけれど、そういうことごとをしずかに分けあっている、ということが、わたしたちにとってはとても重要だったような気がする。

同じ空間にいる人どうしは、そのために少しずつなにかを費やしている。

労力をつかってその場所にやってくること。身体をおなじ場所に置きつづけること。知らない人と知りあいながら、そのなかで自分が過ごせる位置を見つけること。時間をつぶすこと。

そうすると、おたがいに少しずつ、その場所を貴ぶ必然性が生まれる。それはほんとうに少しでいい、肩肘張らずにいられる程度でいいのだが、でも、必要なことだ。

避難所では、長すぎる夜のせいか、それが顕著だった。避難所にやってきたお客さんたちは、なぜかそこで朝を迎えることに対してみょうに腹をくくっており、みなそれぞれに空間をたいせつにし、そこで自分が居心地よく過ごすことまでもたいせつにしてくれた。そのおかげで、あの何もしない時間が守られていたのではないか。

そんなふうに生活の時間から離れられる場所を、どうしたらウェブ上で作れるんだろう。ウェブ上で集まることはとてもかんたんで、それゆえ時にインスタントになってしまう。

なにもかもオンラインで済ませてしまいながらわたしは、他人と共にいる時間のために何かを費やすことは、人間にとってどうしても必要なことなのではないか、とさえ感じるのだ。

さて、そう言っておいてなんだけど、月曜日の避難所にはオンラインの参加者もいた。

月曜の朝の鉄道自殺を危ぶんで立てた企画だったが、実際に月曜日に学校や会社がある人はなかなか喫茶店で夜を明かすわけにはいかないようで、やってくるお客さんには大学生や自由業の人が多い。出勤や登校の前に来るお客さんもいないわけではなかったけれど、なかなか役割を果たせていないという感覚があった。

そこで、避難所の夜にはラインを解放し、メッセージが来ると必ず返事をすることにした。実はこちらのほうが常に実際の来客より盛況で、深夜三時ぐらいまでのあいだはわたしは定期的にラインに返信していた。ラインをくれるお客さんは高校生から社会人までいて、多くの人が「今日は眠ってみるけれど、朝起きて本当にしんどくなったら行きます」と言った。

「はい、待ってます!」と返すが、ほとんど誰も来なかった。そのかわり、午後になると「無事学校に行けました」とメッセージが来る。そちらのほうが、「避難」してもらうよりもずっとうれしかった。実際にはおなじ場所にいなくても、会おうと思えば会えると確認しあうだけで、一瞬すれちがったように思えた。不思議と、これもオンライン上だけで話すのとは違う。ある場所で実際に待っていると責任を持って言えることは、わたし自身にとっても大きな支えだった。

あるとき、「行けないけれど、魂だけは飛ばしました!」とメッセージをもらった。すでに魂を飛ばしたといわれてしまうと、待ってます、と返すのも違う。ちょっと考えて、その人の魂のぶんのお水をカウンターに置き、写真を送りかえしておいた。魂と場所をともにする、というのも、思えば妙な経験だった。

次にどこかから「待ってます」と言えるのはいつになるだろう。畢竟だれも来なかったとしても、「待ってます」と偽りなく言うことができれば、それでいいとも思えるのだが。

向坂 くじら

向坂 くじら

詩人です ときどき舞台や喫茶店のカウンターにも立ちます

Reviewed by
清水 健太

ただ同じ場所にいることの意味。やっぱり分からないけど、でも少し分かった気がします。
読み終わると、ことばを交わしていたような気持ちになった。

「分かるようで分からないこと」がことばになると、
依然分からないのだけど、でも
以前より分かったような気がする。
でも、分かるとは結局そういうことなのだ、きっと。
やっぱりことばは面白い。

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