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にんげんの仕事

鍵を開けて 詩人が「しょぼい喫茶店」に立った日々のこと

まずは以下のテキストを見てもらいたい。

冷蔵庫の下の方に。デミグラスソースしかない。足元に。イナゴしかない。一文字違いですね、イチゴ。イチゴの方がいいな。大丈夫ですか、頼まなきゃよかったとか。ちょうどいいです。でもなんか、戦場から戻った感じですね。地雷一回踏んだんです。酒飲まない。車で来たんで。芝生をはぎ取るんです、そのあときれいに土を掘ってすぽっと埋めて、またきれいに戻す。その仕事は大企業でやってました。地雷を埋める仕事。陸上自衛隊っていうアメリカの下請け。あまりものって言ったら悪いですけど、ヨックモックです。どこまで嘘かわかんない。基地をまもるための地雷。誰か来た? おばけですね。ヨックモックってお菓子で一番おいしい。全然開かないな、開けても開けても。

読んでもなにがなんだかわからないだろう。脈絡がなさそうで、少しはある。かと思えば突然まったく関係なさそうなことが差し挟まってくる。これは、「書記がいるカフェ」で書き起こされた記録である。

「書記がいるカフェ」には書記がいる。書記はカウンターのいちばん端でパソコンを打ち、店内で行われている会話をできるかぎりすべて書き起こす。といっても、ただでさえタイピングの速度が会話の速度に追いつくのはむずかしい上、喫茶店という空間では往々にして会話があちこちで同時進行するもので、実際にすべてを記録するのはむずかしい。なのであくまで「できるかぎり」で、そのとき聞こえてきたものだけを書き取れればそれでいいことにした。そして、もう一つの大きなポイントとして、パソコンにはプロジェクターがつながっていて、書き起こしのようすがリアルタイムで壁に投影される。誰かが何か話すと、話にすこし遅れて壁に上のようなテキストがあらわれるということだ。それを営業時間の三時間半に渡って続けると、最終的に書き起こしは15000字に及ぶ。

見ての通りテキストだけではほぼ意味がわからないが、その場にいると意外に納得して見ていられる。違う会話をしていてもお互い耳には入っているから、なにが書き起こされているのかは見ればわかるし、なによりその場にいれば、動きや発話者などの言葉以外の情報が共有できているからだろう。

いちおう、上記でなにが起きているのか解説しておこう。

冷蔵庫の下の方に。デミグラスソースしかない。足元に。イナゴしかない。一文字違いですね、イチゴ。イチゴの方がいいな。

このあたりは店員であるわたしとお客さんとの会話で、わたしがストロベリーティーのオーダーを受けてイチゴソースを延々探しているのをお客さんが冷やかしている。しょぼい喫茶店では間借りで営業させてもらっていたので、こういうことがたまに起きる。イナゴがどうとか言っているのはふざけているわけではなく、カウンターの下を探していたら本当にイナゴの佃煮の瓶詰めが出てきたのだ。自分の店員としての至らなさにがっくりきたわたしがお客さんに「大丈夫ですか、(ストロベリーティーを)頼まなきゃよかったとか(思ってないですか)」と尋ねると、お客さんが「ちょうどいいです」と答える。そのあと突然始まる地雷のくだりは別のお客さんの身の上話で、その合間にこれまた突然ヨックモックを持った人が来る。地雷の話になんとなく集中していた一同が、というか書記がヨックモックに気をとられるのがわかる。

ここまでを踏まえて、もう一度実際のテキストを読み返してもらいたい。若干わかりやすくなったのではないか。わたしたちが会話の言葉を理解するためには、他にたくさんの要素が必要らしい。とはいえおそらく依然として言葉としては読みづらく、グチャグチャに見えるだろう。これがわたしにはおもしろい。

わたしの言いたいのは、本当はつつがなく進んでいる会話なのにテキスト単体にしてしまうとわかりづらいね、ということではない。逆だ。場に実際にいると、まるで会話がつつがなく進んでいるかのように錯覚するが、本当の会話はここまでグチャグチャで、混沌としている。

寂しくて死ぬならって誰だよ誰だよ。漫画みたいだね腐敗した生徒会。冷蔵庫入れますか? どっちか入らなかったら。ちょっと待ってちょっと抜ける。すぐ戻る俺も帰りますよ。私の会社のキーボード。楽だなあ。なんでわらってるんですか?なんも笑ってないですよ。

その場にいた人たちからすると、会話がリアルタイムに書き起こされるという状況はやっぱりいくらか非日常的なようで、はじめはみんなそわそわする。が、わたしが予想していたよりもかなり早くみんな慣れた。お客さんにおしゃべり好きの人が多いからか、そのうちおしゃべりに熱が入って、投影された画面からは気がそれる。「書記がいるカフェ」もまた、これまでこの連載で紹介してきた「場の詩プロジェクト」の一環としてやっている。「なにか仕掛けをつくることで場に出てくる言葉はどう変化するのか」という大元の関心からするとやや地味な出力だったけれど、そのおかげでわりにふつうのおしゃべりが書き起こせたので、その点は結果オーライでもあった。

ふつうのおしゃべりはときにとても希少で、その希少さが詩を思わせる。その場にいる人たちがたまたまその場に集まったこと、話がある方向へ流れていくこと。その一回性についてあらためて考えると、それだけでとても希少だ。そしてそんな希少さの上で、こんなにも破綻した支離滅裂な言葉が当然のように交わされていること。可笑しくて、うっとりする。発話のなかで、「あー」「えっと」という調子とりや語順など伝達の内容には直接影響しない部分は、当然ひとによって運用が異なる。それが無意識的にせよ、そのひとの否応ない表現にほかならないことも、わたしの胸をうつ。

なにげない話し言葉が好きなあまりミスをしたこともある。「書記がいるカフェ」をやったころ、わたしははじめて一般企業に就職したばかりだった。会議の議事録をとるようにいわれて、できるかぎり一字一句を書き起こしたら、「これはAIにもできる仕事だよね」といわれた。最近書き起こしソフトが充実してきて便利らしいですよね〜なんて言って聞き、しばらく経ってからそれが罵倒であることに気がついた。意味のある情報と意味のない情報とを選り分けることが人間の仕事であるという。

そんなもんかね、と思いながら、「書記がいるカフェ」の記録を全文ネットにアップした。なじられこそしたがおもしろいものはおもしろい。すると、それに対してリアクションをしてくれた知人がいた。彼は聴覚障害があって、何度かしょぼ喫にも来てくれたことがある。以下に彼のツイートを引用させてもらう。

今でこそテレビ字幕は一般的になり文字起こしアプリの精度も向上し様々な場面で使われるようになってきているけれど、文字化される言葉はある目的に沿って発せられたものが大半で、自分もまた目的があって取り入れる。とくべつ意味を持たない(と一見思える)日常会話に何気なく触れる機会は少ない。大人になればなるほど自分にとって意味のある情報のみを取り入れようとしがちだから、日常生活に溢れる雑多な音声情報をそのまま取り入れることのできる機会は本当に貴重。あれは意味がない、これは意味があると簡単に断じられるほど人間は賢くないし、意味がないと思えるものも大切にしていきたい。[1]

これはおもしろかった。今度はまるでひっくりかえって、意味があるものとないものとを切り分けなかったことが人間の仕事であるといわれたのだった。わたしははじめから、目的をもたない言葉が、それが誰のものであってもひとしく尊重される場をつくりたかったのかもしれない。このこともまた詩の言葉へ漸近していく。

生まれてこのかた履歴書なんて一度も書いたことないって生き方してるけど、それでもなんとか生きてるから。死にかけたことってあります? 身体的に? 心因的にでも。一番近かったのは心臓近いところにやけどして動悸したときがやばかったけど本当に危なかったのかはわからないし。骨折したことないな。私もないな。アウトドアよりは絶対リスク少ないと思う。そうね。僕六歳くらいの時に、二段ベットだったんですけど上から落ちて出窓を砕いたことあったんですけど、二時間ぐらい死にかけたんですよ。

[1] Daichi Nomura 2019/01/29のツイート(https://twitter.com/3h17/status/1090229692089610240?s=20)

向坂 くじら

向坂 くじら

詩人です ときどき舞台や喫茶店のカウンターにも立ちます

Reviewed by
清水 健太

書記がAIでなく人だからこその「書記がいるカフェ」なのだと分かった気がする。
人がする会話のぐちゃぐちゃ加減、混沌さ。その極めて人らしい特徴を掬い上げる役もまた、人にしか務まらないはずだから。

意味の唯一性や同一性を追求すると、コスモスという地獄の方へ。
意味の多様性や複数性を追求すると、カオスという地獄の方へ。
両極端の間を彷徨するヤジロベエが人なのだとすれば、向坂さんがしつらえる詩の場は、疲弊し傷つきがちなヤジロベエたちにとって貴重な憩いの場だ。
「天国じゃない」かもしれないが「かといって地獄でもない」こと。
消極的な表現で恐縮だが、このことがやはり重要で尊いと思った。

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