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ひとに仕事を頼むということ

鍵を開けて 詩人が「しょぼい喫茶店」に立った日々のこと

人と一緒に仕事をするのが苦手だ。自分の想定を崩すタイミングで指示が来たり、自分が立てたはずの企画や進行プランがディスカッションを重ねるうちまったく違うものに成り代わっていったり、まして仕事の内容と関係のない人間関係のことで労力をとられたりすると、急に意欲がなくなったり、ときにわーっとパニックになったりしてしまう。

しょぼい喫茶店で働かせてもらっていたときのワンオペレーションは、ほとんど理想の働き方に近かった。店長のえもいてんちょうさんは最後に締めに来てくれるけれど、営業中は基本店にはいない。店にはわたしとお客さんだけで、注文をとるのも、料理や飲みものを作るのも、お金をもらうのも、みんなわたしがやる。

だから、「洗い物を手伝ってもいいですか?」といわれたときにはフリーズした。お客さんが多かった日は閉店後に洗い物をする。そのときも、ふつうならお客さんにはお帰りいただく時間の申し出だった。その人だけを特別に残すというのはどうなのか。また間借りで営業させてもらっているわけだし、お客さんを勝手に働かせるというのはいかがなものか。というかなんで洗い物を?

なにより、洗い物はわたしにとってはまったくわたしの仕事であって、そこにどうひとを入れていいのかわからなかった。わたしの頭のなかで動線や配置が決まっている空間に他者を招き入れるのは怖いし、仕事を適切に分担する自信もない。なんならひとりでやるほうがよっぽど楽に思える。

が、それらがいっぺんに頭のなかを過ぎていったのはごく一瞬のことで、わたしは「いいですよ、お願いします」と答えた。

わたしの心配は杞憂に終わり、その人はそつなくてきぱきと働いてくれ、わたしはその人のサポートに回っていたぐらいだった。ふだんひとりで立っているカウンターの中にふたりでいっぱいいっぱいになりながら洗い物をし、そのあいだ他愛ないおしゃべりをした。

仕事を終えると、ふたりで駅まで歩くことになった。少し店から離れたころ、その人はぽろぽろと自分の話をはじめた。恋愛でちょっとした失敗をしたこと、そのせいでいまつぎの選択を迫られる局面にいること、知り合いには話しづらいと感じていること。しょぼ喫から駅までは距離があって、そのあいだ、あわてるようすもなく、一歩ずつたしかめるように聞かせてくれた。わたしは相談事に関して、こと恋愛の話に関しては役に立つことを言えるわけではないけれど、できるだけしんとなって聞いた。

このためだったのだとなんとなくわかった。きっと、この人ははじめからこのことをわたしに話したかったのだ。わたしに特別なことができるわけではないとはいえ、だれかにどうしてもある話をしないといけない瞬間というのがあって、それがたまたまそこにいたわたしでないといけない局面もまたあるらしい。

ふしぎなことだが、洗い物を申し出られたときから、わたしはそのことがわかっていたような気がした。カウンターに入れることを選べたのも、その切実さにうたれたからだった。そして、そのときわたしたちのあいだにはなんの貸し借りもないように思われた。それが快かった。

それから、わたしはときどき人に仕事を頼んでみることにした。

当時、昼間は就職エージェントとして会社に勤めており、仕事に就けない人や仕事を辞めた人、辞めたい人の相談を日々聞いていた。わたしが詩人の活動やしょぼい喫茶店の店員をしていることを知って相談に来てくれる人も多く、わたしのまわりには他の就職エージェントにはない特需が生まれていた。「お金にならないやりたいことを続けたいけれど、同時に食いぶちも稼がないといけない」という相談がやたらと多かったのだ。

かくいうわたしも会社勤めをしていたわけで、境遇はほとんど同じだ。自分が愛することの持続と生命の持続とは同じくらい切実で、というか互いに依存関係にあり、どちらかが絶えてはもう片方もできなくなる。なので愛することで食っていければ話が早いけれどそう簡単ではなく、やりたいことに時間を割けて、かつ自尊心を傷つけずに済む仕事を、やりたいこととは別で探さなければいけない。

ところが、後者がなかなかむずかしい。自尊心はたやすく傷つき、やりたいことをしている以外の時間の自分のことがきらいでたまらなくなってしまう。そうするとやりたいことへの愛もかすれて、生命力の維持が悪循環におちいる。

そういう人と出会うと、しょぼい喫茶店の営業にゲストで来てくれないかと誘った。ロボットを作っている休職中の女の子とそのロボが来てくれたときには「ロボがいるカフェ」を開催した。このロボがまた犬型で表情ゆたかでかわいくってかわいくって、わたしもお客さんもじゃれあいまくっていた。エサ箱というテイで投げ銭を集めていたら、ロボ自身の修理代くらいはみごとに自力で(?)稼いでいったらしい。同じく仕事を探している途中の占い師の友人に占いブースを持ってもらったこともあるし、シンガーソングライターを「ポエム・イズ・マネー(第二回参照)」に呼び、お客さんが書いた詩を即興で歌にするイベントをひらいたら、なんとのちに彼女もしょぼい喫茶店の店員として別の曜日を担当するようになった。そのときによほどしょぼ喫を気に入ったという。

わたしはそういうことが起きるのが好きだった。人と仕事をするのはやっぱり苦手だし、だれかに何かを頼むには毎回猛烈な決意が要る。けれど、わたしにはできないことをゲストが軽々とこなし、それをお客さんが喜んでいると、おおげさかもしれないけれど、奇跡のように思えた。そしてそのときにゲストと対等であると感じられることが、やっぱりうっとりとうれしかった。

ある日、パティ・スミスの詩集を持ったお客さんが来てくれた。その男性は、基本的には他の人の話を聞いてずっとうっすら笑っているだけだったけれど、話の合間を縫ってはわたしにだけ詩集を見せてくれる。詩集には付箋がたくさん貼ってある。ときどき、「ポエトリーリーディング(詩の朗読)に興味があるんです」というので、ここでこの詩集を読んでくれればいいのに、となんとなく思っていた。

わたしはだいたい、店の中に横並びにできるふたつかみっつの会話の輪のあいだを反復横跳びのように往復している。その人はそのあいだに落ち、おだやかにはしているけれど、ちょっと緊張しているようだった。わたしが「ここで詩を呼んでくれればいいのに」と思っていたのが伝わっていたのかもしれない、朗読で舞台に立つ前の人の緊張に似た雰囲気があった。

わたしとその人が同時に会話の輪を抜けて向かい合ったとき、その人は詩集の一ページをひらいて、「これが好きな詩なんです」といった。わたしは思い切って、「朗読に興味があるなら、いまそれを声で読んで聞かせてくれませんか」と申し出た。その人は一瞬黙ったけれど、ゆっくりと頁に目を落とし、つぎに発された声はもう、詩の一行目だった。

他のお客さんがどんなにうるさくしようと、どんなに注文が入ろうと、その一篇が終わるまではわたしだけは詩だけを聴き切ろうと決心していた。ところがそうはならなかった。詩が一行ずつ進むたび、話していた人はひとりずつ静かになり、こちらに視線が向けられるのがわかった。男の人は目を本から動かさず、声のトーンも変えないままで読みつづける。やがて店内は静まり返って、詩を読む声だけが残った。

わたしは息が止まりそうだった。詩を読み終えて、水から上がってくるように彼が顔をあげると、お客さんのひとりが拍手をした。ほかのお客さんもそれにつづき、からかいのない、シンプルな拍手があふれかえった。魔法だと思った。そのとき朗読をしてもらえて本当によかった。その人のためではない。わたしとお客さんが朗読を聞けてよかった。わたしはその人に仕事を頼み、その人はそれを見事につとめあげてくれたのだ。

それは彼の人生でいちばんの拍手だったと彼は言った。

向坂 くじら

向坂 くじら

詩人です ときどき舞台や喫茶店のカウンターにも立ちます

Reviewed by
清水 健太

中学のときに読んだオー・ヘンリーの”The Gift of the Magi”が思い浮かんだ。
一息ついたあとじんわり温かいことに気づく、短編小説のような読後感。

ひとに頼んだ仕事が見事につとめあげられること。そしてたがいに「何の貸し借りもない」「対等」な関係だと思えること。
それは本当に、奇跡のようなできごとなんだよなあ。
そうなることばかりではないからこそ。
そして、それが「起きる」のではなく「起こされる」ものだからこそ。
向坂さんの依頼や承諾がなければ、そしてまた相手の承諾や依頼がなければ、奇跡のような瞬間の数々はやっぱり起こりえなかったのだから。
なのに日ごろ当たり前のように期待してしまうのは、どうしてなのだろう。

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