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鍵のかかったカフェ-ひらかれた場のために

鍵を開けて 詩人が「しょぼい喫茶店」に立った日々のこと

しょぼい喫茶店は二階にある。入り口にたどり着くためには、道路に面した小さなビルの入り口をくぐり、階段を一度折り返さないといけない。そうしてようやくドアの前にたどりつくと、ドアにこう書いてある。

いらっしゃいませ。
ここは「鍵のかかったカフェ」です。
ドアには鍵がかかっていますが、
お店は開店しています。
どなたでも鍵を開けることができます。
ドアをノックして、
なにか言われたら

「■■■■■■■」

と答えてください。
合言葉はそれだけです。

ドアノブにさわってみると、たしかに鍵がかかっている。廊下は暗いが、中からは人の話す声がしている……

その日の喫茶店の企画を、「鍵のかかったカフェ」と名づけた。これが、人が集まる場にささやかな仕掛けや決まりごとを作り、そこで交わされる言葉の中に詩があらわれるのを待つ……という消極的なプロジェクト、「場の詩プロジェクト」としては最後の企画になった。

上記の合言葉が伏せ字になっているのは、当日宣伝のためSNSに載せた画像を再現している。現地に来ないと合言葉はわからない仕組みだ。

オープンな場、とよくいう。そういうときの「オープン」には、ただ場の入り口がひらかれているというだけではなく、オープン・マインド的なオープン、つまりはだれもが対等で、直截にものを言えて、それでいて互いに尊重し合っている、というような意味も含まれる。

オープンな場をこのんで語る人の口ぶりには、しばしば既存のクローズドな場へのうんざりが透けて見える。特定の人以外を排斥する場、内部の人間関係が閉塞した場、入りたいと思ったときに入れず、出ていきたいと思ったときに出ていけない場。最近のオープンな場ブームを見ると、クローズドな場に傷つき、いやな思いをさせられてきた人がこれほど多いのかとおどろく。

かくいうわたしも例外ではない。しょぼい喫茶店で企画を考えて告知をするときには、いつもそれがだれかを拒むことがないかを気にしていた。他の場に拒まれて居たたまれない思いをしている人が来られる場所になればいいとは思っていたけれど、かといってそういう人たち専用にもしなかった。

実際、しょぼ喫にはさまざまな職業、年齢、セクシャリティを持った人たちがおとずれた。無職が大学生の就活相談に乗っていたり、デザイナーと五歳児がいっしょにお絵かきをしていたり、おじさんと歌人と高校生とが前衛短歌の歴史について語ったりしていた。そういう風景を見るとわたしは安心して、しずかに食器を洗ったりできた。

けれども、そこはほんとうにオープンな場だったか?

というより、わたしが目指していたのは、ほんとうにオープンな場だったんだろうか?

しょぼい喫茶店がふつうの喫茶店と大きく異なるのは、大半のお客さんがSNSを見て来るということだ。それも、ドリンクやデザートを目当てに来るわけではない。しょぼ喫自体がSNSをきっかけに生まれたこともあり、しょぼ喫という場所や、あるいはその日カウンターに立つわたしの存在を知ってやってくる。

喫茶店の多くがお客さんの生活の圏内にあることに対し、しょぼ喫は基本的に非日常の場所として使われていた。インターネットで見た場所に行く、インターネットで見た人に実際に会いに行く、ということにはたいへんな勇気が要る(人によるかもしれないけれど、少なくともわたしにとってはそうだ)。その境界を超えてやってきたお客さんは、なにかを期待している。わたしを含めただれかと話し、「インターネットで見てきたんです」と声に出して言うこと、なにかここでしか得られないおもしろい経験や出会いが起きること。

その期待をわたしも感じていたし、わたし自身もまたなにかを期待していたと思う。場やコミュニケーションのことが苦手なわたしが場をひらいたら何が起きるのか見たかったし、やっぱりお客さんには来てよかったと思ってほしかった。そしてそれが、すでに場やコミュニケーションに失望したお客さんであればなおさら、わたしが場をひらく意味があると思っていた。

だから、「どなたでもいらっしゃい」という態度をとることは、わたしにとっては単なるクローズドな場への反感の表明であり、言葉の通りの「どなたでもいらっしゃい」という意味ではなかった、ということになる。「今ここを見ている、わたしに『どなたでもいらっしゃい』と言われたら行ってもいいかなと思うあなた、いらっしゃい」ということだ。

SNSで告知を書くとき、いつも手紙を書くようだった。もちろんどんなお客さんが来ても拒むつもりはなかったけれど、それでもやっぱりいつも或る誰かに会いたかった、特定の誰というわけではない、でもたったひとりの誰かに会いたかった。

クローズドな場は怖く、オープンな場はときにさみしい。場に拒まれてひとりになったとき、本当に言ってほしかったのは、「ここなら誰でも入れます」ではなく、「ここにあなたに入ってほしいです」という言葉ではなかったか。

わたしはいつでも、自分が会いたい誰か、すこしでも入り口を狭めたら尻込みしてしまいそうな誰かへ、こっそりメッセージを送っていた。「どなたでもいらっしゃい」といいながら、暗号をかくすように、わたしの呼びかける言葉に引き寄せられて来る人のことを待っていた。

これを胸を張ってオープンな場とは呼べまい。

@pomipomi_medama
「あたらしい名前カフェ」では、
“あたらしい嘘の名前”で過ごしていただきます。
ただそれだけです。どなたでもご参加ください。使ったことのある名前はすべて禁止です。忘れないよう名札も用意するし、決められない方にはわたしが命名します! わたしもあたらしい名前を名乗ります。
あそぼう!!午後10:53 · 2018年9月7日·Twitter for iPhone

@pomipomi_medama
「場の詩」、なんかみんなでわちゃわちゃ遊ぶ企画っぽいですが、わたしの担当日にしょぼ喫にくるお客さんはたいていひとりでいらっしゃいます。なので、はじめてでも、人見知りでも、友だちがいなくても大丈夫。みんなで話すのがきらいでもわたしと一対一で話せます。わたしとも話さなくてもいいです。午後10:48 · 2018年10月24日·Twitter for iPhone

@pomipomi_medama
先月はガパオライスをだしていたくじらですが、八月のごはんは和食です!! しょぼ喫おむかいの鶏肉専門のお肉屋さんがすてきなため、鶏肉料理です。なにかは夜のおたのしみということで、、、午後0:03 · 2018年8月2日·Twitter for iPhone

さて、そうでありながら、同時にひらかれた場であるためにはどうすればいいか。

階段を上ってくる音が聞こえる。わたしはカウンターの中で、お客さんの会話を聞きつつ、そちらにも耳をかたむける。足音が扉の前で止まり、予期していたノックの音がする。ドアに飛んでいき、「合言葉をどうぞ」とささやく。

ドアの向こうの声が答える。

「鍵を開けてください」

そして、わたしは鍵をあけ、はじめてお客さんと顔を合わせる。

SNSには隠していた「鍵をかかったカフェ」の合言葉は、そのまんま「鍵を開けてください」だった。自分が誰かに会いたいのだという確信に近い予感はあっても、それがどういう人なのかはわからない。会ってからもしばらくわからないこともある。ならば、インターネットの境界をこえてわざわざやって来てくれた人には、全員に鍵をあけるしかないのだ。合言葉、それも直截な頼み事をするだけの合言葉がドアにぶら下がった形骸的な鍵をかけ、お客さんが来るたび、その人のために鍵をあける。「鍵を開けてください」という要請に、かならずこたえる。この行為が、わたしがしょぼい喫茶店でやっていたことの全てだったといってもいい。

そしてふしぎなことに、店に立てばかならず、ああ、この人を待っていた、と思える人が、わたしをおとずれてくれたのだ。

――

わたしがしょぼい喫茶店に立った最終日は昨年の11/21でした。ちょうど一年が過ぎた今回で、この連載はおしまいです。お付き合いいただき、ありがとうございました。コロナ禍の真っ只中での連載で、いまもまだ不安なことばかりですが、いつかまた場をひらけることを夢想しています。

向坂 くじら

向坂 くじら

詩人です ときどき舞台や喫茶店のカウンターにも立ちます

Reviewed by
清水 健太

いま目の前にいる「誰か」の声に応えて、鍵を開ける。
この何気ない行為がもつ意味は、私たちにとっての「ひらかれた場」というもののありようをすら象徴していると思った。

場をひらくような言葉や行為は、鍵を開ける以外にも様々ある。
いらっしゃいませ、おかえり、ようこそ、よく来たね。
手招きをする、両手を広げる、微笑む。
奥義や必殺技の類ではない、ありふれた言葉や行為。その一つひとつは些細な言葉や行為が、関係を紡ぐ緒となる。
緒があってはじめて、言葉や行為を重ねていくことができるようになる。
緒はいつしか埋もれて分からなくなっていくけれど、場をひらくためにどうしても欠かすことができない。

向坂さんはしょぼい喫茶店で、関係の緒をどのようなお客さんとの間にもつくろうとしていた。予期せぬ展開が時に起ころうとも、緒だけはかならずつくる。
そのことを主題化する「鍵のかかったカフェ」が「場の詩プロジェクト」の最後だったのは、決して偶然ではないのだろう。もちろん連載の最終回にこのことが書かれることも。

私は向坂さんがひらくしょぼい喫茶店を直接経験していない。
でも半年以上の伴走を終えるいま、それがどのような場だったのか、あたかも常連のように思い出したり語ったりできるような気がしている。
向坂さんの連載は、「場をひらく」ための場を言葉によってひらいていく、そういう試みでもあったのかもしれない。向坂さんの意図はともかく、私にとってはそのようなひらかれた場だった。
どのような場であれ、向坂さんの手でいつかまた鍵が開けられるそのときを、ひそかに待ちわびていたいと思う。

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