しょぼい喫茶店で開催していた「場の詩プロジェクト」という企画。場で起こるコミュニケーションの言葉に遊びや制限を加えることで、その場のしゃべり言葉の中に詩的なものがあらわれるのを期待する……という他力本願なプロジェクトで、シリーズ化してVol.13まで作った。
その中で、思いついてから実行するまでにいちばん尻込みしたのが、「敬語禁止カフェ」だった。
趣旨は単純、というかタイトルそのまんまで、その日は店内で敬語を使うのを禁止する、というだけ。ところが、これをいざ実行に移そうとすると、どうしてもある不安が生まれる。
……わたし、めちゃくちゃ怒られたらどうしよう……?
お客さんどうしの会話であればある意味では対等な関係とも言えるし、そもそもわたしが禁止を言い渡して無理やりやらせていることなんだから、多少失礼でも叙情酌量の余地ありといったところだろう。しかしわたしはどうか。言い出しっぺは罪が重い感じがするし、それ以前にまず店員という立場である。ものすごく目上のお客さん(誰だそれは)がやってきて、わたしがタメ口を聞いた瞬間ものすごく怒られたら、かなり悲しい。こっちがふざけてやっているのにものすごく怒られるほど悲しいことはない。
しかしだ。間違えられやすいけれど、敬語はそもそも「敬意を持っている相手に使う」ものではない。上司にあたる人をまったく尊敬できないときや、逆に心から尊敬できる年下の友人と話すときのことをふりかえればすぐに分かる。わたしたちが敬語を使うときには、社会的な上下関係、もしくは親しさの度合いをおたがいに確認しあっているだけ。
それなのに、敬語に関してなにか指導されたり叱られたりするときには、つねに「敬意」が問題にされる。これはわたしにはうっすらと不快に思える。敬語を使うくらいぜんぜんかまわないが、敬意を持つことを強要されるのは不気味だ。どんな気持ちにせよ、気持ちのことを外側から規定されることに対して、わたしたちはもっと抵抗していいのではないか。
敬語禁止カフェを開催することがその抵抗の一端だと思うと、わたしのこの不安自体どこかで突破しなければならないことのように思えてくる。タメ口で話しまくり、好きなように敬意を持つ。そういう場で起きるコミュニケーションはやっぱり見てみたいし、わたし自身、タメ口で話しかけるのが怖い相手とそこで話してみたい気もする。
そこで、不安と好奇心との折衷案として、当日は以下のようなチラシを喫茶店の扉に貼りだした。
「敬語禁止カフェへようこそ!
本日、こちらの喫茶店では
敬語の使用が一切禁止
となっております。
・敬語を使われないと不快な方
・年功序列や上下関係を重んじる方
・敬語以外で話したくない方
・お仕事の打ち合わせでお越しの方
にはふさわしくない対応をする可能性があります。
どうぞご了承の上お入りください」
なんという臆病さ。振り返ってみると情けないが、こうして、おっかなびっくり敬語禁止カフェはオープンした。挑発的な企画のわり、かなり及び腰なスタートだったと思う。
◆
店に入ってくるお客さんはチラシを見ているわけだから、初っぱなから多少強気に出られる……と思いきや、いちばん困ったのがあいさつだった。
「いらっしゃ……い?」
「『いらっしゃい』は敬語なんじゃない……のかな?」(※お客さんも語尾に困っている)
「そう……かな……」
この体たらく。
日本語の場合、敬語は文の末尾につくことが多いので、発言の最後をもにゃもにゃさせてごまかす人が大量発生した。せりふをスッキリと言い切れないせいで、わたしを含め、みんななんとなく息が上がってくる。その不自由さがおかしかった。タメ口にしようと思うとどうしても方言になってしまうお客さんがやってきたときには、そのこと自体があまりにかわいいのでみんなで惚れ惚れした。
「敬意の強要からの解放」的な意味も持った企画だったにもかかわらず、敬語じゃないとかえって話しづらいという人の多さにもおどろく。あるお客さんは、「ふだん敬語でどれだけ自分を守っているかわかった」と話してくれた。敬語を使う、ということは、強要された敬意の表明という受動的な一面を持ちながらも、同時に親疎の「疎」のほう、「あなたとわたしとはそこまで親しくないですよ」というメッセージを能動的に提示する手段でもあるらしい。
わたしのほうは、予想したとおり店員としてのふるまいに足元をすくわれまくっていた。さいわいお客さんには笑われっぱなしで済んだけれど、接客でも「コーヒーだよ〜」とか「ごはんだよ〜」とかしか言えないし、なにより「すみません」が封じられていることのおそろしさ。注文を忘れておいて、「ごめんね〜」としか謝ることができないのがとにかく最悪だった。
べつに語尾を伸ばす必要はないんだけど、なぜかみんなそういうしゃべり方になってしまう。そのうち自然と声まで大きくなり、店内はかなりにぎやかだった。敬語を禁止しただけなのに、笑いやおどろきのリアクションまで過剰になっていったのもふしぎだった。
◆
とても当たり前のこととして、敬語を禁止したからといって、親しい関係が自動的に生まれるわけではない。初対面同士はやっぱり初対面同士だし、気遣いや距離感はタメ口でも十分伝わるはずだ。
それなのに、言葉を変えようと試みるだけで、関係まで変えようとしているようなふるまいをしてしまう。「親しい友だちと話すような感じ」を、さして親しくないどうしが一生懸命演じている、というような空間になってくる。
すると、使おうとしている言葉と実際の関係性との間にどんどんズレが生まれる。明らかに気を遣いあっているにもかかわらず、肩でも叩きそうな勢いで笑いあったり、わざとお互いを呼び捨てにしてみたりしている。そのズレがどこか不気味で、そしてめちゃくちゃおかしかった。わたしたちは本当にしじゅう笑いころげていた(笑いやすくなるのも敬語をやめたせいかもしれない)。閉店の時間には、祭りを終えるような安堵感があふれた。ある種の異常な狂騒状態を抜け、お客さんひとりひとりが手を振って日常に戻っていく。
でも、本当にそうだろうか。言葉と関係性とのあいだに起きるズレは、日常生活にもいくらでもあるんじゃないだろうか。親しさを演じることと、敬意を演じることの、なにがちがうというのか。
そういう、人間関係のなかの瑕疵のようなぶぶんに目を向けるとき、あんまり批判的になりすぎずにいたい。わたしもまたてきとうに敬語を話し、他者との距離感を間違え、おもしろくもないときに笑う、不器用なコミュニケーションの一員なのだ。外側に立ってそれを批判したり、生真面目に論じたりなんて、到底しようがない。
なので、なるべく茶化して笑いころげていることにした。そして、わたしがそういう態度でいつづけられたのは、まちがいなく人見知りで好奇心旺盛でおもしろがりなお客さんたちのおかげでもあった。