敬語禁止カフェをやった頃から、不快なことがおもしろいと思うようになった。
敬語を禁止されると、もともと持っていたコミュニケーションの形式をあきらめ、場当たりで対処するしかない。そうすると不安で、おろおろしたり、時に気まずくなったりする。そのすがたが、見ているとなんとも魅力的だった。わたしはそれがとても好きで、よくお客さんたちに底意地の悪さをなじられたが、そう言うお客さんのほうだって、お互いが言いまちがったり照れたりするのを思う存分おもしろがっていた。
コミュニケーションがうまくいかなくなることは誰にでもある。それが誰か一人の問題として起こるとしんどいけれど、全員が共有できる問題になってしまうと、どこか痛快で、さっぱりと可笑しい。自分に非があると思うからしんどくなるのであって、全員がおろおろまごまごしていれば、ただわけがわからなくて楽しいだけだ。
そうなってくると、企画者としてはとにかく来た人をおろおろまごまごさせる手立てを考えたくなる。そのなかで、いちばん好評(不評?)だったのが、「鏡の国カフェ」だった。お客さんが席に着くと、机の上にひとりひとつ鏡が置いてある。会話するときも、飲み食いするときも、常に自分の顔が視界に入るという仕掛けだ。
これがもう、本当に不快だった。ふだん鏡を見るときはある程度そのことを意識しているぶん、無意識の自分の姿には予想外の威力がある。ゲームや携帯の画面が消えた瞬間に一瞬映るあの自画像をずっと見せられている、というとわかりやすいだろうか。ふつうにしゃべったり食べたりしている自分の姿が見えるだけでこんなにつらいとは。
かといって意識を鏡に向けると、今度はおしゃべりのほうが立ちいかなくなる。会話のターンが自分に回ってきて、ひとりで長くしゃべらないといけないような局面になると、みんなどこかで語尾がふにゃふにゃ消えてしまう。
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近頃、オンラインで仕事をするようになって、このときのことをよく思い出す。ビデオ通話の画面には自分の顔も映るからだ。あんなにみんなでキャアキャア言ってイヤがったのに、オンライン会議では「鏡の国」が当たり前になってしまった。思いもよらない逆転現象だ。
最初は目を逸らしたり非表示に設定したりしていたが、だんだん慣れてきた。会話に集中し始めると自然と相手の画面を見るようになって、自分からは目が離れる。一度その状態にさえなれば、実際に会って話しているのとほとんど変わらない。
ひるがえって考えると、だれかと会って話すとき、わたしたちは自分の姿を忘れていると言える。自分という存在からは逃れられないと思いがちで、ときにそのことに苦しむけれども、意外と日常的にわたしたちは自分を手放しているのではないか。
だれかに話を聞いてもらいながら、それが伝わってくると感じることもある。相手がこちらの姿にだけ目をかたむけるようにして話を聞いてくれていると、そこに相手との合一感が生まれる。話そのものをふたりで協働して起こしているような感覚さえ起きる。この感覚は、話している側に安心感を与える以上に、聞いている側にもある種の喜びを起こさせる。相手の話を熱中して聞くことで、いっときあのうんざりする自分自身から解放されるというような。
しょぼい喫茶店でのおしゃべりは、ささやかな身の上話や、日常の困りごとのほうへ向かっていくことが多い。わたしはたいてい聞き役に回る。「鏡の国」の日もそれは例外ではなく、みんなちらほらと自分について話しはじめる。ここでおもしろかったのは、話している方が鏡によって話しづらくなるのは当然として、聞いているわたしのほうもかなり「聞きづらく」なったことだった。相手の話を聞きながらうなずいたり、相槌を打ったりする自分の顔が、ちらっと視界に入る。そのたび前述した合一感がリセットされて、聞いている自分のほうに意識を戻されてしまう。
すると、余計なことがつぎつぎ頭に浮かんでくる。「いまの相槌は作為的ではなかっただろうか?」とか、「聞き終わったらなんと返答すればいいだろうか?」とか、「いま自分は『話を聞く自分像』に酔っていないだろうか?」とか、一度考えはじめるときりがない。話す人と話を聞くわたし、という図を客観しているといえば聞こえはいいが、実際のところそれは一歩メタ的に引いただけの主観にすぎない。自分を見る目を手放す、というところからはむしろ遠ざかっている。
話しているほうにとっても、それは重大な問題だったようだ。自分の姿が見えていると、話している時間が長くなるほど、内容よりも「いま自分が話している」という事実のほうに気圧されてくる。それで、話をあいまいに宙に浮かせたまま、その状態を早めに切り上げてしまう。自分の姿を見ずにいる、という要素は、話そうとするときにも必要なものであるらしい。
そう思うと、誰かが話し、ほかの誰かがそれを聞くとき、わたしたちの間で起きていることの有り様がみえてくる。お互いに自分の姿が見えなくなり、相手の存在と話の内容だけに意識が注がれる。それが、なにかが話しはじめられる一番最初の条件なのかもしれない。
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すこし遅れて入ってきたあるお客さんが、そのころにはすでに鏡に疲れ切っていた他のお客さんたちの度肝を抜いた。企画趣旨を聞き、席についてしばらく鏡の前でおしゃべりをしたのち、「鏡があるとつねにキリッとした顔でしゃべれるからいいですね!」と言いはなったのだ。なんだかよくわからないが他の人たちからすごいすごいと賞賛を浴びていた。
鏡が平気な人はほかにもいた。傾向としては男性より女性のほうが鏡に強い。ある女性は、女性のほうが化粧のとき自分の顔を見ている分見慣れているからではないか、という。わたしが女性のなかでは例外的に鏡が苦手で、かつふだん化粧をしていないことを思えば、理にかなっている気もする。
誰かがぽつんと「そもそも自分の容姿が好きじゃないんですよね」というと、その場にいた人たちのほとんどが一斉に大きくうなずいた。鏡が平気な人も含め、だ。わたしもそうだ。ふつうに過ごしているときはできるだけ自分の容姿のことを考えないでいたいし、自分の姿が見えるとうんざりする。このことが、自分のふるまいや発言に作為が見えてうんざりするのと、そう遠いこととは思えない。わたしたちは、外見にせよ内面にせよ、つねに自分の好きになれない部分を牽引しながら他者と関わらないといけない。つねにキリッとしていたいといったお客さんが、「キリッとしていない自分」をできるだけしまっておきたいと思っているように。
しかし、他者と言葉を交わす時間には、それをいっとき脇に置いておくことができる。自分の姿を視界から外し、相手に視線を注ぐことができる。だから、なにかを語り、それを聞く、ということが、捨てがたい行為として日常にくっついてくるのではないか。
コロナ禍で会えなくなった相手とわざわざオンラインで接続しておしゃべりしながら、強くそれを思う。