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きょうは「笑顔」が禁止です

鍵を開けて 詩人が「しょぼい喫茶店」に立った日々のこと

「しょぼい喫茶店」での営業について書いてみよう、と思ったときと今とでは、ずいぶん世の中が様変わりしてしまった。こういうふうに書くのさえ、今さら言い尽くされたことだと感じるほどだ。当たりまえのように毎週店をあけ、肉体ごと集まってくる人を肉体ごと待っていた日々が嘘のように、今や会うことはおたがいにとってリスキーなものになった。

さいきん、会うことへの郷愁のようなものがあちこちに漂っているのを感じる。ビデオ通話の不便さやもの足りなさに呼び起こされて、これまで当たりまえだった場たちがうっとりと想起され、うつくしい思い出になっていく。

また前みたいにみんなで飲みたいね、新幹線に乗って遠くにいきたいね、会って打ちあわせできたころはよかったね。

わたしも例外ではない。いまここから思い返すと、しょぼい喫茶店で過ごした時間はものすごく希少なものに感じる。飢えもあってか、「同じ場に肉体を持って居合わせ」ていたからこそできたことのほうに心惹かれるし、みょうになつかしい。会っていたころのほうが自然で、いまが不自然だと、無意識に思いがちだ。

でも、ほんとうにそうだろうか、と思うこともある。

わたしのばあい、働いている会社は三月末からリモートワークになり、詩人としての朗読ライブもワークショップもオンラインでやるようになった。自宅の半径一キロ圏内でほとんどの買いものを済ませ、あとはずっと家にいて、ビデオ通話で打ちあわせをする。

そうするとどうなるかというと、端的にいうと、なんだか健康になってしまった。

ライブやワークショップがしたくて悶々となる日ももちろんあるけれど、それはそれとして身体的な健康がやってきた。わたしはもともと自分の身体に対してかなりぼんやりしたほうで、これまで睡眠時間も食事時間もアトランダムな生活を送ってきた。身体に対する意識もにぶく、暑さで突然ダウンするのは日常茶飯事、それどころかときに空腹で動けなくなったりする。

それが、毎日いちにちじゅう家にいるようになると、規則正しく眠り、規則正しく食事を摂ることができるようになった。さらには、リモートワーク三ヶ月目に入ったころ、突如からだを動かしたい衝動に襲われ、始業前の時間に近所を走るようになった。といっても早起きしているわけではない。行きの通勤がないぶん、ゆっくり起きても走ってシャワーを浴びて食事するくらいの時間がとれるのだ。帰りの通勤のぶん浮いた時間には、映画を観たり、ちょっと読むのに体力が要ると思って後回しにしていた本を読んだりすることができる。なんだ、このくらしは。

 

もちろん、いつまでもこの状況がつづけばいいと思っているわけでもないし、たいへんな人がたくさんいることもわかっていて、いつも気がかりだ。一刻もはやくこの危機が去ることを願っている、というのもまた本心である。

でも、「人に会わずにずっと家にいる」という生活そのものに関して言えば、わたしにとってはとても過ごしやすく思えるのだ。

オンラインで打ちあわせをするとき、実際に会うのと比べると、極端に雑談が少なくなる。これをさみしいと思いつつも、わたしは同時に心のどこかでホッとしている。雑談が苦手だからだ。会話が終わるなり相手の画面が消え、瞬時にひとりの部屋に戻るあの感覚は、どこか空恐ろしく、しんしんとしずかで、そして、ものすごく気軽でもある。

そうなると、自然とある考えが頭に浮かぶ。口に出しては言いづらいけれど、避けようなく浮かんでしまう。

かつてのわたしは、「人と実際に会う」なんてめんどうなことを、どうしてわざわざやっていたんだっけ……

〈「笑顔禁止カフェ」へようこそ!/きょうは「笑顔」が禁止です。/店員やほかのお客さんの愛想が悪くても、怒らないでください。/禁止なのは、「笑顔」です。愛想笑い、つくり笑い、なんとなくニコニコする、などをやめてみてください。〉

その日のしょぼい喫茶店では、ドアにそう貼っておいた。すると、お客さんがなんとなくむすーっとしながら入ってくる。その時点でかなり可笑しいが、笑いをこらえる。

笑顔を禁止にしようと思ったのは、笑顔も敬語と同様に、ときに権威のほうから強要されることがある、という実感があったからだ。わたしは笑い上戸であるくせにタイミングのよい笑顔を出力するのは苦手で、ときに愛想や態度が悪いといわれたり、怖いといわれたりする。でも、明るい気分でないときに笑うのは、わたしにはどうしても困難に思える。笑っていることはよいことだ、という規定も不気味だ。

じゃあ、全員が笑顔を禁止されていたらどういうコミュニケーションが生まれるのか、ひょっとしてわたしのような人でも居心地が良かったりするんじゃないのか、と思ってつくった企画だった。

べつにテレビのショーのような「笑いをこらえないといけない笑わせあい」がしたいわけではなかったので、〈吹き出したり笑ってしまったりするのは、たまにはオッケーです。気楽にいきましょう〉とも付記しておいた。が、いざ蓋をあけてみると、世の中には悪い人というのがいるもので、なんだかおもしろいことを執拗に言ってくる。そうなると、もう場はまったく含み笑いに支配されてくる。かくいうわたしも、そうなるともう何もかもがおもしろく思える。笑顔が困難とはなんだったのか。

わざと笑わせようとしている人に抵抗するぐらいはまだ楽なほうで、なぜか店内に落ちていた空のプラスチックのケースをお客さんが「それ、なんですか?」と指さし、拾い上げてみたらそれが「コブクロのベスト盤(二枚組)の二枚目のケースの割れたフタ」だったときには、もう全員喉が涸れるほど笑った。笑いをこらえている集団にとって、無意味なものはめちゃくちゃにおもしろい。

でも、そのうち笑わせあいが収まってくると、みんななんだか元気がなくなってしまった。笑顔をやめているだけなのに、なぜかしのび声でぽそぽそしゃべりたくなる。話しづらいわけではなく、会話はゆっくりと無理なく続くけれど、ただ続いているだけ。ふしぎな飛躍をしたり、だれかが熱を入れて話し出したり、そういうイレギュラーなことがあまり起こらない、という印象だった。みんな平熱の声のまま、平熱の世間話をつづけている。

安部公房の小説「壁」のなかに、以下のようなセリフがある。

「人は微笑を通してその向うにある表情を読むことはできない。有名なモナリザの謎の微笑を想出してみたまえ。それから主人の前に出た下男の微笑を考えてみたまえ。微笑はどんな視線に対しても鉄の防壁となるのだ。」

これを踏まえれば、「笑顔禁止カフェ」でのわたしたちは、いわば丸腰であったのかもしれない。微笑は防壁、ディフェンスであって、つまり人と顔を合わせることは戦いなのだ。そう思うと、あのおずおずした距離感にも納得がいく。わたしたちは盾を持たず、そのくせ槍などをそれぞれに手にして、その射程に入らない声色でもって話していたのだろう。やっぱり、会うことは本来、感染の危険以前から危ういに違いない。

悪い人や突然の無意味に笑わされてしまう、以外にも、「笑顔禁止」にもかかわらず笑ってしまう、ということはしばしば起きた。それはほんとうにわけもなく、説明しようがなく起きる。だれかの話に頷いているうち、なんだかほほえんでしまうのだ。ほかの人が「あっ、笑顔」と指摘するのにもちょっとタイムラグが起きる。笑った本人も、あれっ、なんかいま笑ってましたね、なんていう。

『壁』はまたこうも書いている。

「ところで注意すべきことは、無表情はやはり一つの表情で、ごく小さなこわばりだということと、しのび笑いはいくら小さくなっても決して微笑にはならないという点だ。では微笑とは何か? 微笑こそ表情の三角形の中点、完全な無表情であったのだ。」

笑顔禁止カフェでの経験に照らすと、このやや荒唐無稽にも思える主張が、実感を持って迫ってくる。われわれは人の前に立たされたとき、わけもなく微笑のほうへ、ディフェンスのほうへ向かっていく。けれども、それは関わりを避けるためというよりはむしろ、コミュニケーションという戦地に赴くためなんじゃないだろうか。ぽそぽそしゃべっていたわたしたちの、しずかであたりさわりのない会話。それはそれで心地よかったけれど、笑顔という盾があってはじめて、わたしたちはお互いの存在に踏み入ったり、会話でもって遠くへいったりできるとしたら。そして、できることならそうしたいと願って、わざわざ危うい場へやってくるのだとしたら。

ビデオ通話という安全圏にありながら、その果敢さのことを、また思わず吹きだしてしまうときのあの快哉のことを思う。

引用:安部公房『壁』(昭和文学全集 第15巻 836項)小学館

向坂 くじら

向坂 くじら

詩人です ときどき舞台や喫茶店のカウンターにも立ちます

Reviewed by
清水 健太

コミュニケーションにおいて、笑顔という武器はいまだに「偽り」や「反則」と誹られることがある。でも武器を一時的に手放せば、それなしでは上手く関わり合えないことがよく分かる。そして武器の真価を垣間見られる。
してみれば向坂さんが開催する「場の詩プロジェクト」は、武器を使いこなすべく鍛錬する道場のようだ。「師範、今回は笑顔ですか!?」道場の後方で主がほくそ笑んでいる。

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