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9月

スケッチブック

今、踊るということ
(9月1日)

気づけば夜通し 踊りの動画を見ていた
いま踊ることを 考えていた
色々と探して結局 街のジムに通い始めた

いま踊ることを 体が求めている
内に籠るものの 発露を求めている

何が籠もっているんだろう とも考える

言葉で縁取る前の 前の もっと前のもの
それはどろっとしていて ぐるぐるしているもの

言葉にする必要もないもの
そこから言葉をとりだすには、

たぶん 川の水が泥を洗って石を磨くように
たぶん 海の波が貝殻を置いていくように

澱を流す
鼓動で動く 私のなかの水が動く
別にそこに何もなくたっていい

体の軸があって その周りには領域がある
今の自由と今の制限を縁取るために
私は踊り始めた

ジムの音楽はとても機械的で
やせるために体力づくりのために
CMみたいな目的が前面に出ていて
はじめた瞬間に あーこれではないかも とも思った
それでも踊るのだ 動くのだ いまできるやり方で

マスクの下の 笑いを隠して
   

名前を得るということ
(9月4日)

午前中 本のタイトル会議があった。
といっても出版社の社内会議で 私は参加できないので
何日か前から そわそわソワソワしていた。

もう何年も 名付けの手前で止まっている。
私がこれだと思う名前が チームにとっては全然違ったり
(後から気づいたのは、つまり作品の方向性もずれているということだった)
編集の方が提案してくれた名前が どうしてもしっくり来なかったり

今日は満月だから きっと決まるはず
神頼みならぬ 月頼み

午後一番に打ち合わせを入れていたのは良かった。
結果をすぐに聴くことができた。
通ったと知った途端 体の力が緩んで
芯が一本通った。

副題をつけるのか、ナイルという地名をつけるのか
まだ確定していないことがあるけれど、それは生まれてからでも大丈夫。

妊娠したときに、ふとお腹の胎児につけたい名前が浮かんだときのような
受胎した感覚だ。

何年も前から20万字以上ある目の前の原稿と
ようやく命を育んでいける という感覚。

タイトルには「響」という漢字が入ることになった。
まだ出会っていなかったもの同士が 出会うとき
響き合う経験のなかったもの同士が 音を鳴らし会うとき
言葉を合わせて 会話を紡ぐとき
そこに生まれる響き コードに 耳を澄ませる。

考えてみれば
そればかりを繰り返し 繰り返し 愛でながら 生きている。


 亡くなった人の誕生日を祝うということ
(9月8日)

朝からそわついていました
花を買おうか 好きだったあのスイーツを買おうか どちらも 買おうか

ふつうに過ごそうか

暮らしや仕事や打ち合わせをしながら 時おり写真と花とを見つめ
そうして日は暮れていきました

あなたが生まれなければ、わたしは生まれなかった
あなたを産んだ人がいなければ
あなたがあの日 産道を通って 命がけで 外に出てこなければ

そのあなたを産んだ あの人が 生まれなければ
あの人があの日 産道を通って 命がけで 外に出てこなければ

命の流れ から湧き出る新たな流れ の流れ の流れ 
源流を知ろうとする鮭のように わたしは今日 時を遡っていました

大きな樹の前を前に わたしは気がついたのです

一番先端にあるか細い枝が
生まれ 産み 生まれ 産んできた 軌跡の連続であることを

ひとつの微生物が 魚になって 海を出て 4本の足で歩き
頭をもたげて立ち上がり 大陸を越え この島にたどり着き
荒れ狂う嵐を超え 飢餓を超え 戦禍を超え

その間、途切れなかった命の先端に私があることを知り
そのあまりの奇跡に気が遠くなる思いがしたのです

あなたが初めてその奇跡を繋いでくれた日 今日この日は

もう新しい枝も言の葉も生むことのない 静かな幹となったあなたが
これまで落として土に返った葉から栄養を受けて育つ私の
枝の先に生まれた小さな娘の寝息に 耳を傾ける夜にします


立ち会うということ
(9月11日)

Sが一編のビデオメッセージを送ってくれた
「しおへ」と書かれたその動画を再生してみると
ギターを抱えた彼が友人と 歌いはじめるところだった

わけのわからないまま じっと画面に見入るしおがいて
私は 歌い手と聞き手がはじめて出会う瞬間に立ち会っている

イントロですぐにわかるそれは  
はじめて彼が歌うのを聞いた時から 私がお守りのようにしてきた曲だった
歌詞の意味なんてひとつもわからないのに 決して 消えることなく
私の孤独の純度を一番側で守ってきた 一編の物語のような詩。

ねえ このひとたち誰?
こっちの人かっこいいね まさきくんみたいだね こっちの人が好きだな
小さな指は ギターを鳴らして歌を贈ろうとするSの隣に映る友人を指す
大好きなお兄さんに似ているらしい

身も蓋もない正直さに少しくすぐったくなりながら 同時に
ひとつの儀式に立ち会っているような 神聖な気持ちが生まれた

しおとかぶった夜の布団の中に コーラスが流れ込んでくる
私にではなく しおに贈ると言った彼の意図がじんわりと染み込んでくる  

画面をじっと見つめる彼女に 彼のまなざしと 私のまなざしが注がれている
次の世代を見つめる歳に わたしたちはなった 

そこまで生きた だからこれからは

君を見守るよ どんな違和感の どんな孤独の側にもいられる 歌を贈るよ 
祝福のメッセージが 波のように何度も 何度も こちらに向かってくる

たとえばお食い初め お宮参り この先の七五三が
本人を祝福しながら 側で見守る大人たちの願いのためにあるような「儀式」だとしたら 
もっともパーソナルな儀式をいま ひとりの友人が執り行ってくれている
 
「Hola、シオリ!」
歌が終わった動画の中で急に呼びかけられると
しおははっとして 不思議そうに 嬉しそうに 私を見た


足の裏を見せる、無防備な信頼
(9月17日)

私たちが足の裏を見せるとき
それはひどく無防備だ

顔を床に擦り付けて祈るとき
あるいは布団に横たわるとき
普段なら大地と接して
見えない足の裏が見えるとき
私はそこに ひどく無防備な信頼をみる

―――

調べものをしていて 動画で
ムスリムの人々が祈るところを久しぶりに見た
裸足の足がそろってこちらに向けられていて 私はたじろいでしまった
神に対して 己を投降している 無条件の信頼の姿に見えた

夫の布団からはみ出す足の裏のことを考えた
あるいは誰かが半分裸になって
砂浜で足を投げ出している時のことを
裸足で力強く大地を蹴る 
ある国の人たち こどもたちのことを

靴や靴下に隠れた
人の足の裏をそんなときにしか見ることがない

亡くなった人が顔や体に布かけられているのに
足の裏がのぞいている写真を思い出したりなんかもした


景色がかわるということ
(9月22日)

4連休 遅い夏休みとして家のみんなで 
えりちゃんの実家に遊びに行くことになった。

メンバー全員が同じ家で暮らしているために
手土産どうしよう 車で行くか電車がいいのかなんていう話が
それぞれの気まぐれのタイミングで繰り返され
たのしみと緊張が入り混じった時間を 過ごすこと数週間

駅に迎えにきてくれたご両親を前に
一体なにを話せばいいのか とまどってしまった

それでもひとたびお家に上がらせてもえば
しおは庭にある自分サイズのベンチを早くもお気に入りと宣言して
あっちこっちへ探検に向かう

バーベキューの火起こしを手伝い 蚊取り線香を設置して
肉や野菜が焼ける頃には
酔っ払って上機嫌に歌い出すお父さんがいて
えりちゃんの小さかった頃の話や最近の近所の人たちとの話をふつうにしてくれるお母さんがいた
よそゆき感のあまりない感じに なんだかとても安心してしまった
家族の膜の中にすんなりと入れてもらえた感じがした

しおはえりちゃんのお父さんの膝にのり
えりちゃんとねこちゃんと寝るんだと張り切り
なのにちょっとしたことで不安になって
自分のお父さんにだっこを求めた途端
はしゃぎすぎた線がプツンと切れたらしく
わたしがお風呂に入っている間に眠ってしまっていたらしい
お酒を飲み過ぎたりっぴは いつもより高い声でおやすみなさいと言った

えりちゃんとえりちゃんのお母さんの
ゆるゆるしたお喋りに縁取られて 夜がふけていく

うんと昔や今のこと 幼なじみや 変わってきた街のこと
時間や場所を いったりきたり

そこに入れてもらった私は
なんだか自分の実家で母と おしゃべりしているような気分になり
お母さんという まあるい存在や
そんな時間があったことを思い出せたことで
気づかなかった場所が 満ち足りて あったかくなっていた

ソファーが気持ち良くて
キッチンのお母さんとの距離がここちよくて
えりちゃんとおかあさんと私のつくる三角の
真ん中に浮いている時間が尊い

いつものメンバーで いつもと違う夕日を見て いつもと違う部屋で眠る
家族の家族と出会い いつも一緒にいる人のやってきた場所のことを知る

心が弾んで 底から緩んで ぐっすり眠って気がついたら
眩しい朝日がさしていた


海に行くということ
(9月23日)

大船で待ち合わせ
海が見たいのだと話したら 浅野さんは
モノレールで行きましょうと提案してくれた

いざ乗ってみてその理由がわかった
街の中をいくジェットコースター
大通りを見おろし 交差点の上を大きくカーブして 
山を超え トンネルを抜け 海がひらける

光の粒 光の層 やわらかい風 曇り空
もう駆け出しそうな私がいて 
まずはお昼にしましょうかと冷静な提案がある

混みそうな食堂で一足先に昼ごはんを食べて
江ノ島の山の上に神社にお参りにいった

まずは神様に ちゃんと名乗って 
これから海で遊ばせていただきます と ことわりを入れる 
正しい順番を踏んで 心落ち着けて いざ砂浜へ

しおは あっという間に波打ち際へと駆け出して
その後ろを淺野さんが 俊敏においかけていく

数ヶ月だけうちに住んでいた
淺野さんのことを彼女は覚えてはいなくて 
最初は緊張していたみたいだったけれど
波しぶきを前にふたりは自然と手を繋いでいた。
海で会えてよかった

次はおかあさんと! りっぴ、来てきて! 
今度はおとうさん! えりちゃん お砂で家を作ろう!
しおは遊んでもらいたい相手を選び放題だ。
波打ち側へとなんども駆けていく。

海の家が立たなかったビーチでは
スピーカーを持ちこんだ若者たちが それぞれの縄張りを張っていた。

あれ、これ……と呟いたら、
ブラジル音楽ですよ と 淺野さんが言った。

波打ち際のような文章が書きたい
ゆらゆらと揺れている水面に
一隻の船がすっと到着するように 物語が始まって
終わるとまたすっと出航していくような
さりげなく始まって 余韻を残すものを。

ひさしぶりに海を見て 船の描く模様を見て 私はそう思った。


太平洋にて
(9月24日)

目が覚めて まだ海の近くにいることが嬉しい

太平洋の音があると思う
日本海とも せとうちとも 沖縄とも違う

黒い砂浜の上で 白波がほどけた後の余韻
波が引いていくとき 最後に一瞬 星空のように
無数の細かい光を帯びる瞬間がある

その波打ち際に立つと
限りない水平線の上には 空しかなく
意識が横へ 横へと広がっていって
果てしなく向こうにある大陸の存在が
ぐっと近づいて見えるような

アメリカに行くには メキシコに行くには 
エクアドルに行くには チリに行くには
一番広い海を渡らなければいけないというのに

波打ち際のその音は
たしかに繋がっているという感覚を運んできてくれる

旅を活かすということ
(9月24日)

泊まったホテルの図書コーナーが充実していて
ふたりが寝静まった後も
朝食のテーブルでもずっとぱらぱらめくっていた
海の近くでは 遠い国の話を 
あたかも旅しているかのように読むことができる

静かな旅が読書だと心から思うし
いまは静かな旅ができればいい

嵐はやり過ごして
心の帆をしっかり立てて
風を探して
視線の先の前兆に従って
風を見つけて

海を見るために山を登る人
海を知るために船を出す人
波 あるいは トレイルを読める人
賢者たちから教わった 旅の知恵を
暮らしにこそ 活かしてきたけれど
今こそ
この紙の上に書くことに
活かせるようになりたい

軌跡をなぞるということ
(9月26日)

「夫婦ラジオ」なるものをはじめることにした。
ひとつのテーマを同じ土台に立って話してみる、というささやかな取り組み。

同じ言葉を使っていても 実は違うことを話しているのかもしれないし
その違いを奏であってみよう  

その収録1回目
テーマはパートナーシップ

そもそもパートナシップは必要だと思っていましたか?
いつごろそう思いましたか?
誰と会ってそう思いましたか?
その気持ちはどう変化しましたか?

12年も付き合っているというのに
目の前の人に対して新しい発見がある

ふたりで歩いてきた道を
彼の言葉でなぞってみるだけで
まったく違う景色に見えるのだから
人と人とは不思議なものです。

季節の変わり目に
(9月27日)

唐突な夏の終わり
木の葉がざわつく
氷入りの麦茶は白湯に変わり
薄暗い朝
冷たい雨の幕が下り
ナツヤスミ フユヤスミ ソノアイダニ

まだあなたは緑なのに 深くて分厚い 立派なみどりなのに
それさえも気づかないうちに色づき 枯れてゆくのなら

私が覚えておこう

みんなが見上げていた あの
生まれたての透き通るような命が 
肉づいて 葉脈が見えなくなったあとも
私はあなたを見ていたから

無数の葉のひとつになっても見ていたから

そして秋に 少しのとまどいと諦め
恐れを抱く あなたの声を今 聴いているから

これから嵐がやってくる
あとは落ちる身
吹き飛ばされずに 熟せるのか 全うできるのか

枝から離れて横たわる 死の瞬間が訪れても

土のベッドは暖かいだろう 優しいだろう
石畳はつるりとして 冷たいだろう
コンクリートは ざらざらと痛いだろう
下水道は暗く ぬちゃっとしているだろう
そしていつか海に出るだろう
あるいは 出れらないかもしれないけれど どこかで溶けて
この世には戻ってくるだろう

輪廻転生

ある時は葉っぱとして揺らいでいたあなたが
ある人生は陶器のコップになって
水や湯に触れるのかもしれない


脱皮
10月2日

長らく苦手としていたことと また向き合わなければ
苦手だと逃げていては 生活していけない
本当に追い込まれたら シノゴノ言っている暇さえないのだけれど
まだ追い込まれていないから 
自分で自分の膜を破らない限り 次には進めない
篭っていたい でもいつまで?
びりびり みしみし 怖い 痛い 脱皮の音

ぱきりと割れた先の次の世界には ふつうに光がさしていた
想像した闇はなく 力が抜けて 座り込んしまった


焚き火を見るということ
10月4日

誰かがキャンプに行くとなると わざわざ自分の上着を押し付けて
匂いをつけてきて、とお願いするくらい 焚き火が好きだ

今回の焚き火は川辺で 水の流れを前にするのも久しぶり
最近 立体的なものを見ていなかったことにまず驚いた

生々しさとはなにかという話になる
生と死の間にあるものと ある人がいう
現代人はリスクを取れなくなって 
生々しさがわからなくなったと いう人がいる

旬はなにかという話になる
私たちは旬の食べ物をいただくというけれど
それは人間の傲慢じゃないか
頂いている命そのものの旬なんて 決められるのか
たとえば あなたの命の旬はいつですか

今日話したことは 瞬間のことなんじゃないかと私は思う
感覚 感情 言葉 なにかが生まれる瞬間のこと

炎は渦を巻き 川は白い飛沫を 生まれて消えて 
その刹那を 囲み 話していたんじゃないかと思う

少しずらすということ
10月6日

誕生日を前に なんだか書きたくなってしまい 
ちょっとのつもりが ノートとペンと密会の日
日常の中に転がる気づきを集めていたら
公園で綺麗な葉っぱやどんぐりを拾うときのように 限りがない

この前焚き火の会で出会った人が タロットをしてくれた
絵を読んでもらうということを初めてしたのだけど 視覚的なものっていい

言葉はコインみたいに いつでもひっくり返ったりして
その遠心力で 会話をしたり わかりあった気になったり
分かり合えない気がして苦しんだりしている
はまったり ずれたりしながら てんてんと転がった先の 
景色をみようと 文章を書いている

絵を読むというのは 海の中をあっちへこっちへと潜るみたいだ
ひとつの絵の中に いろんな兆しを探して
自分が考えたことや 気になっていたことを 掘り起こしてみたり
遊びのあとに意味付けした言葉ではなく 視覚的なイメージが残るのが面白い

そのとき出たカードは2人の同じ女性が左右から向き合っている絵で
自分自身と向き合う時期という意味
奥に子宮みたいなシンボルがあって 
根底で自分のなにかがゆっくりと変わっている時期らしい

その絵を見ていたら 何年か前に暮らした海辺の村で
地球のポケットに入ってしまったと感じた瞬間のことを思い出した

日常の中に 自分の頭の中の言葉と 目の前の海
それ以外 ほとんどなんにもない時間を生きていたら
だんだん感覚が澄んできて 自分が筒になったような気がした

ある一連のできごとを体に通して言葉を生む という道の先に
こんどは命を通してみたい 
そう思ってその後けっこうすぐに娘を産んだ

食べ物と空気 海の鼓動を得て 命を生む その次に来るもの

とても漠然となのだけど 今度は音を通してみたいと思っている
何かを体に通して 出てくるもの 呼吸
その回路を きちんと掃除して やわらかくして 
どんな音がででてくるのか 自分の声を知りたい

絵よりも 言葉よりも もっと刹那的な 一瞬のこと
日々生まれて 消えていく音 その純度を高めてみたい

昨年 誕生日を迎えた時に 私はただ「平熱」であることを願った。
体と心が安定することを求めていたんだと思う
1年暮らしてみて 平熱はちょっと上がった 
以前より冷えにくくなったし 右と左の体温が極端に違うこともない
家のみんなにはとにかく前より健康そうだと言われる
体はまた 筒になれるかもしれない

このアパートメントの日記の時間軸もちょっとずらしてみようと思う
わたしや周りの人に7の記念日が多いから 
カレンダーの1ではなく、7から1ヶ月を始めてみようと思っている
壁掛けの月と少しずれて進む 自分の時間からは 何が出てくるだろう

寺井 暁子

寺井 暁子

作家。出会った人たちの物語を文章にしています

Reviewed by
中田 幸乃

「日常の中に/自分の頭の中の言葉と/目の前の海それ以外/ほとんどなんにもない時間を生きていたら/だんだん感覚が澄んできて/自分が筒になったような気がした」

なんだかそうしてみたくなって、そっと声を出してみた。
喉に手を当てて、震えを確かめる。
わたしがつくった、わたしの耳にしか届かない小さな音は、優しくて、心地よかった。

波の音、焚き火の音、大切な歌、出会ってきた人たちの声。
寺井さんの文章を読んでいると、思わず、目を閉じて、耳をすましてしまう。
聴こえないけれど、聴こえてくるような、音を拾い集める旅をする。
水平線のような、果てのない安心感にからだをゆだねながら、ゆっくり、ゆっくりと読む。

「読むこと」の喜びが、ここにある。

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