沈黙する銀の夜に。

それをエンジェルと呼んだ、彼女たち。

何かを目の前の人に伝えたいと思うとき、それがその人への贈り物なのか自分が言いたいだけなのか、自信をなくして口をつぐむことがこのところ多い。こんなことは以前にはなかったので、もしかしたら成長と取るべきなのかもしれないけれど、私は口をつぐむ淋しさを持て余している。そしてそのことは、今のところ情けなさを伴う。

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小・中学生のときの同級生で、ひとりとても大人びた女の子がいた。身長がすらっと高くて、ゆっくりと話し、朗らかに笑う女の子で誰からも一目置かれる存在だった。たしか、年上のお兄さんがいたと思う。ある日、同じ学年の女の子と思えない大人っぽさを遠くから見ていた私に、「ノラ・ジョーンズ聴くんだ」とにこやかに話しかけてくれたのが彼女だった。

ノラ・ジョーンズの話ができたことが嬉しかったのと、彼女に話しかけてもらったのが嬉しかったのと。その両方を今でもよく覚えている。けれどクラスも一緒になったことがなく、当時の思い出といえばそのくらい。それでも時どき遠くからにこやかに人の話を聞く姿や好きなものを熱弁する姿を見かけていた。

絵が飛び抜けて上手で、観察眼が鋭かった。でもその鋭さは内側に向けられていたように感じた。外側には柔らかい人だった。多くを話しすぎない、聞きすぎない、でもよく見ているというような。

上京後は地元から遠ざかったにも関わらず、彼女とは随分時間が経ってから東京で再会した。思わぬつながりで共通の友人がいたことがきっかけとなった。久しぶりに会った彼女が小・中学生のときから変わらず凪いだ湖のような雰囲気を纏っていて、対面したこちらの水面まで静けさを取り戻すような心持ちがした。彼女は寡黙というのではないけれど、さりげないのだった。

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静かな語られ方にも拘らず強く印象に残る人々に、須賀敦子さんの回想する人たちがいる。『コルシア書店の仲間たち』は、出会った人々のエピソードを軸にイタリア・ミラノでの暮らしを綴ったエッセイ。観察者に徹しているようにも感じられる須賀さんによって細やかに描写された登場人物たちは、誰も彼も、血の通った唯一無二の人物として私の中に立ち上がってくるようだ。

親近感を抱いても、その人物をすべて知った気持ちになることはない。あくまで「横顔を知っている」という感じ。その具合の正しさに惹かれる。ことさらドラマチックに書き上げることなく、淡々と、でも愛情のある文章で出会った人たちのありようを伝える須賀さんの言葉に出会って以来、自分が主導権を握るのではなく、観察すること・聴くこと・沈黙することについて思いを巡らしている。どう違い、どう伝わり、あるいは伝わる必要がないのか。須賀さんの視点を通して出会うことの心地よさの正体は。

イタリアで出会ったフェデリーチ夫人について、須賀さんはこのように記している。

「……そんな中で、フェデリーチ夫人の客間の集まりは、ある意味で異色だったかもしれない。彼女が六十をすぎた未亡人で、そのことが、客間の雰囲気を、しっとり落ち着かせていたこともあったろうか。そこでは、文学が多く話題になったし、彼女の地味で暖かい人柄がみなの心をときほぐし、夜半すぎに挨拶をかわして暗い道を帰途についても、しずかな余韻のようなものに、自分がすっぽりと包まれているように感じるのだった」(引用:須賀敦子『コルシア書店の仲間たち』 文春文庫、「夜の会話」より)。

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何かを伝えようと自ら口を開いたり行動する以外にも、想い方はいろいろあるのだろう。じっと見て状況を正しく推し量ることもそう。何も言わないでいることもそう。時には表情や気配だけで十分かもしれない。伝えるということに前向きな姿勢でいることを良しとしてきたのだけど、もっと分別があれば言わなかったかもしれないことが、たくさんある気がしてくる。わかるのに、私はずいぶん時間を掛けてしまった。

誰かの印象に残るというのは、強烈さばかりでなく、さりげなさなのかもしれない。漂う余韻それ自体は主張しないし見えないけれど、意思を感じるものだから。

口をつぐむ淋しさはまだ自分のためのものなのだ。いよいよ情けないけれど、この気持ちが小さく乾いてしまうまでもう少しだけ、胸のなかに居場所をあげよう。