なんとなくブッディズム。

第5期(2012年10月-11月)

よく言われる事ではあるけど、陰陽道というのは東洋流の科学だったのだなあ、と京極夏彦の『姑獲鳥の夏』を読んで改めて思った。京極堂の論理展開は堂々と矛盾をはらんでい(るように見え)て、ぼく的には痛快だ。魑魅魍魎が古代的唯物論だったような気もしてくる。

そんな風に思ってから、そういえば、と思ったのと、たまたま観た日本のテレビ番組の中で、デンマーク人デザイナーが日本の文学者のある著書を座右にしているのを見た事が重なって、(本当に)久しぶりに谷崎潤一郎の「陰影礼賛」を流し読みしてみた。有名な箇所ではあるけどちょっと陰陽、いや、引用。
「もし東洋に西洋とは全然別箇の、独自の科学文明が発達していたならば、どんなに我々の社会の有様が今日とは違ったものになっていたであろうか」
「少なくとも、実用方面が独創的の方向を辿っていたとしたならば、衣食住の様式はもちろんのこと、ひいてはわれらの政治や、宗教や、芸術や、実業等の形態にもそれが広範な影響を及ぼさないはずはなく、東洋は東洋で別箇の乾坤を打開したであろう」
谷崎翁は続けて、日本の文化が西洋文明に迎合せざるを得ないのは避けられない状況だということを認めながらも「われわれは実にいろいろの損をしていると考えられる」、と書いている。「損をしている」と感じるのは、やっぱり日本文化のよさを身を以て感じられる環境と感性があったからだろうと思う。谷崎潤一郎が亡くなってから半世紀近く経った今では、なかなかそういう風に感じられる人も少なくなってしまったはずだ。

数年前に岡山にある実家に住んでいた弟が家を改築した。ぼくは迷わず、日本家屋にしたら?と提言したのだけど、結局鉄筋コンクリートの二世代住宅になってしまった。弟が全部出費をまかなったわけなので、もちろん文句はない、がちょっと残念だったのは確か。日本家屋にすると、障子やら襖やらあれこれ手入れに手間がかかるし、冷暖房も効きにくい、つまりあれこれ不経済だというのが、長男(おれ)の提案が却下された理由の一つだったらしい。また以前、母が電話で世間話の途中、突然「実質的な長男はユタカ(弟)ってことにするからね」と言ってきて、まあ既にすっかり実質がそうなっているので、迷うことなく同意したのだけども、そういうことも、ヒダマ家の人たちに、ぼくが発した提言が、こういう時に一般的には権威があるはずの生物学的チョーナンからのものである、なんて風に考えさせなかった要因であったかもしれん。
家庭の事情はあれこれあるにしても、人が住むための家屋が人との繋がりよりも、お金との繋がりを重視されてしまうというのも、せちがらいものだなあ、資本主義よ、と思ったものだった。

ところで『姑獲鳥の夏』には、讃岐出身の家族が登場する。讃岐は香川。香川といえば、岡山とはお向かいさん。石材店を経営していた父につれられて、香川特産の庵治石の買い付けに屋島辺りまでついて行ったり、家族で小豆島に海水浴やサイクリングに出かけたりはしていたものの、その他のこととなると、丸亀市に競艇場があることとか、瀬戸内海放送というテレビ局があることとか、讃岐うどんがうまいとか、その程度のことしか知らず、地味な印象しかない。
そんな印象しかないから以前村上春樹の『海辺のカフカ』を読んだ時に、その主要舞台が高松市になっていたのはかなり意外だったりしたよなあ、と思っているところに自宅の本棚で司馬遼太郎の『空海の風景』が目に留まった。
そういえば空海も讃岐出身だ、と思い当り、しかもここのところ仏教モード(ぼくの中では、仏教モード、儒教モード、道教モードが入れ替わりにやってくるので、その度に関係本を読みふける。)に入りつつあることも手伝って『空海の風景』を再読し始めた。

空海スゴし。三浦梅園もスゴいけど、空海もやっぱりスゴい、というか、なんかデカい。バカデカい。天文学なんてよく知らないけどテンモンガク的にデカイ、とも言いたくなる。人類の至宝。日本の誇りです。クーカイといえば洋服のブランドだとしか思わない西洋人達にしっかり説明してあげるためにも、日本人は空海のことをもっと知ってても良いと思うな。なんでこういう人のことをもっと学校で教えんのだろうか、日本は。
ともあれ司馬遼太郎『空海の風景』、松岡正剛『空海の夢』、この2冊は是非読んでみましょう。

ところで、わがヒダマ家はもともと真言宗だったのをうちの父親が天台宗に改宗した。天台宗の偉い坊さんの弟子になって坊さんの資格まで取ってしまったのだから、まあしょうがない。しょうがないけど疑問には思ったので、なんで?と訊くと、天台宗には他のどの宗派よりも多くのお経があってそれだけありがたいからだ的な答えが返ってきた。それならば「国会図書館宗」とか作ればもっとありがたいんじゃないか、とは今思いついたことだけど、当時も似たり寄ったりのことを考えたはずで、それでもおやじが一生懸命打込んでいることに変な茶々を入れちゃいかんな(ゲンコツ食らうかもしれんし)と少年心に思ってそこのところは黙っておいて、へぇ〜、とテキトーな反応をしたような気がする。

というか、そのころはぼくにとっては別に仏教なんてどうでもよかったのだった。どっちかっていうとキリスト教の方に興味があったし、ブッキョーなんて抹香臭いし、仏教のくせに、それにまつわる諸々が縁起でもない感じもあるし、お経あげたからって家庭の不和が無くなるわけでもないし、ましてやモテるようになるわけでもないし、ブッダってなんかロックンロールな感じしないし、髪型は変だけど別にパンクってわけでもなさそうだし、とにもかくにも、イケてない、と思っていた。

思っていた、と過去形にしたからといって、別にブッダにニック・ケイブと同じレベルで憧れるようになったということは全くないし、般若心経を百万遍となえたらモテまくるようになるとか信じてるわけでもないし、テトラレンマがテトラポッドより特に優れていると思っているわけでもない。それにも関わらず今や、ブッディズムってけっこうイケてる、くらいには思うようになってしまった。それもこれも元はと言えば松岡正剛という人のおかげというかせいというかなのだけど、ことによっては父親の残念を引き受けちゃってるのかもしれんなあ、とか思ったりもする。それが良いとか悪いとかではないんだけども。自分のことながら人の好みってのは変わるもんだなあ、と感心したりする。

人の好みも変われば、話題も変わる。去年放送された『魔法少女まどか☆マギカ』(劇場版、見たいなあ)、これについては以前自分のブログでちょっとだけ書いたんだけど、もうちょっとだけ突っ込んで書いてみる。
とにかくあれはスゴかった。近年まれに見るアニメ作品だということは、多くの人が認めるところ。新房昭之監督はその後西尾維新原作の『化物語』『偽物語』も手がけたが、どれも出色の出来栄えだった。
ともあれ何がスゴかったかと言うと、まあとにかくスゴかったのだけど(答えになってませんな。日本語的にもおかしいし)、最後にまどかが魔女になる契約を結ぶときに条件として出した「願い」がすごかった。ウィキによるとこんな感じ。

   そして告げられたまどかの願いとは「過去、現在、未来、全宇宙に存在する全ての魔女を
   生まれる前に自分の手で消し去ること」であり、魔法少女が溜め込む呪いや穢れの全てを
   破壊するというものであった。

念のために補足しておくと、「魔法少女」は「魔女」といわれるチョーネガティブで社会に悪をなす存在をやっつける正義の味方的役割を持つのだけど、魔女を退治していくごとに、呪いや汚れを溜め込んでいき、最後には彼女達自身が「魔女」になってしまうという設定になっている。で、魔法少女になるには、「キュゥべえ」という猫と狐のアイノコのようなメフィストフェレス的キャラと契約しなければダメで、契約の条件として一つだけどんな願いでも叶えられるということにもなっている。
で、あれこれフクザツな事情があって莫大な魔力を秘めてしまっているまどかがキュゥべえの誘いに敢えて乗る形で契約に踏み切る決心をして、その時の彼女の願いが上の引用、となる。

これって、『仏説無量寿経』で阿弥陀仏が法蔵菩薩のときに立てたとされる48の誓願のなかの、第十八誓願に似てる。再びウィキより引用。

  第十八願
  原文 – 設我得佛 十方衆生 至心信樂 欲生我國 乃至十念 若不生者 不取正覺 唯除五逆誹謗正法
  訓読 – たとい我、仏を得んに、十方衆生、心を至し信楽して我が国に生まれんと欲うて、
      乃至十念せん。もし生まれずは、正覚を取らじ。唯五逆と正法を誹謗せんをば除く。
  意訳 – わたしが仏になるときつ、すべての人々が心から信じて、わたしの国に生れたいと願い、
      わずか十回でも念仏して、もし生れることができないようなら、わたしは決してさとりを
      開きません 。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれます。

まぎかは、魔女が救われなければ自分は魔法少女にならないと言うし、法蔵菩薩は衆生が救われなければ、悟りを開かないと言うところが、とっても似てて、そこがスゴい。(ところで、法蔵はだれと駆引きというか取引をしてるんだろうか?)で、結局、この二人とも願いが叶って、まどかは魔法少女になりつつも自分の実態を概念化して一般的世界とは異なったレベルの世界に存在することになり、法蔵菩薩は阿弥陀如来になって西方浄土に成仏することになる。

こういう浄土系の何かしらが復活してる上に、それが人々の感覚にぐっと来てたりするってことは、一時期「癒し系」ってのが流行ってたけど、もはや世の中はちょっとした心のマッサージで癒されるくらいじゃ二進も三進も行かないところに来てるのかもしれないなあ、とまどマギの最終回を見て思ったのだった。もっと根本的な部分での浄化とか救いが求められてるってことなんだし。

それにしても、空海の頃や中世の仏教の華々しさに比べて、今の仏教はやっぱりイケてないなあ。更にイケてないキャピタリズムの隙をついて別の乾坤を開くべく一擲を投じるような役割を求めるのは酷なのかなあ。なんだか残念な感じだ。

ということで、2ヶ月間、あてどもなく書いてきましたが、これでひとまずおしまい。
お粗末様でございました。