アタマデッカチの没落。

第5期(2012年10月-11月)

古池や/蛙/飛び込む/水の音
(↑区切りごとにリンク張ってみた。)
誰でも知っている、と思われている一編の俳句でさえ、言葉の一つ一つには膨大なリンクが張られていて、
その「本当のすがた」なんて誰にもわからない。
そしてその膨大なリンク情報の中から選択を行っているのは読者であって、
つまりは、意味と言うのは、作品とその鑑賞者のあいだで、その関係性に応じて立ち上ってくる
ものなのだなあ、やっぱり、とかなんとか、久しぶりにロラン・バルトに思いを馳せてみたりする。

まあ、そんなことはともかく。

一昨日、ぼくが関わっているNGO、アクトフォージャパン・ベルギーのイベントが行われた。
鎌仲ひとみさんの『ミツバチの羽音と地球の回転』
ベルギーのドキュメンタリー映画監督、アラン・ドゥ・アロゥさんの新作『ストーリーズ・オブ・フクシマ/ザ・グレイゾーン』の上映会。
客足はちょっとあれだったものの、あれこれ考えさせられるユーイギなイベントになった、と思う。
(とりあえずは、日本の状況をベルギーの人たちとシェアできたってことが重要。)
どちらの映像もドキュメンタリーの力が存分に発揮されていて、見応えがあった。

ドキュメンタリーの強さを思う時、芭蕉の、

よく見れば薺花咲く垣根かな

を思い出す。
海の厳しさを刻み込んだ漁師の指。
老婆の皺だらけの笑顔。
歩き始めたばかりの赤ん坊のたどたどしさ。
稲わらを大切そうに拾い上げる農婦の仕草。
身を呈して子供たちへの放射能の影響を調査し続ける母親の涙。
そういった小さき諸々が大きな画面に映し出される事で、
つまりは、そこに視点と意識をズームインする事で、
そこに一つの確かな「世界」が広がっていることを示すことが出来る。
そういった常に見過ごされ続ける諸々に力を与えることが出来る。
そして次の瞬間、視点が移れば、それらはまた別の世界の一部となっていく。
世界は、それを見るものの視点と意識で成り立っているように思える。
その見方次第で、ミクロ世界とマクロ世界は入れ替わり立ち替わりする。

世界は融通無礙の華厳世界であって、決して遠近法では成り立っていない(よーな気がする)。
遠近法はナイーブで融通の利かないアタマデッカチのコンセプトである(よーな気がする)。
言ってみればコンセプトってもの自体がアタマデッカチにならないと出て来ないわけだから、
遠近法はアタマデッカチの中のアタマデッカチ。キング・オブ・アタマデッカチズに違いない。
それに、遠近法って実は国家と同じくらい暴力的なんじゃないだろうか。
古典的オーケストラの編成というか配置も遠近法っぽいし。
(やっぱ(例えば)ドデカフォンとキュビズムって同じ流れの上にあるんだろうなあ。)

先週末、アニッシュ・カプーアのインタビュー映像をみた。
彼の作品には、いろいろ哲学的なタイトルが付けられているから、
コンセプチュアルアタマデッカチっぽい人物なのかと思いきや、
いい意味で全く期待はずれ。
知性豊か、おおらか、器がでかそう(ばかでかい器みたいな作品もあることだし)、
むっちゃ肩の力が抜けてる感じ。
話を聞いていると、どうやら、彼にとって一番重要なのは、作品の製作過程とその仕上がり。
とにかく面白そうなアイディアが浮かんだら、とにかく試作品を作り始めて、
徹底的に作り込んで、うまく行かなかったら、
しゃあない、また次のもの作ろうか、って感じらしい。
そのためには、エンジニアやらアルチザンやらが技術や知識を尽くして作業にあたることが
とても重要らしく、コンセプト的なものは二の次っぽい。
で、コンセプトやらテーマみたいなのは、どっちかっていうと潜在的にもともろそこにあるものが、
(作品が磨き上げられるにしたがって)次第に浮かび上がってくるテイのものらしい。
もしくは、それらが次第に近づいてくる感じ、だろうか。
彼の話を聞けば聞くほど、アーティストの親玉、というよりは職人の親方、という感じがしてくる。
融通が利いている。
そういえば、彼の作品には、遠近感を惑乱したり、あるいは消滅させたりするようなものがおおい。
彼の(特に宗教的な)バックグラウンドがそういうものを作らせる様な気がする。
今の世の中で、彼のそういった作品がやたらにもてはやされているのには、いろんな理由が考えられると思うが
一つには、そういった「距離感」の問題があると思う。
作家が世界と対するときの距離感、作品と鑑賞者との距離感、作品と世界との距離感…
そういった様々な距離感が、ミザンアビム的にというか、入れ子状にインターアクトする感じというか、
相互包摂している感じというか、そんな感じにある種幻惑的(インド生まれだしね)(←リンクのハードル上げてみた)に(決してカオティックではなく)出入りし合っている。
そんな辺りが、カポール作品のイケテルところなんじゃないだろうか、
とかなんとかそんな風に、(今のところ)ぼくは読み取って見ている。
彼は、「真実を伝えるのに東洋的とか西洋的とか、そういう区別はないんじゃないか」的な事を言っていたけど、
やっぱり東洋的なセンスやアプローチがかなり重要視されている昨今になってきたんじゃないだろうか。

そういえば、こんな作品を作ったことがありました。いつ続編を作るのやら…
under the edge of the world / part 1 : lack within

ちなみに、今日の一枚。ブリュッセルはすっかり秋。