散歩の技法。その1

第5期(2012年10月-11月)

一昨日の夜、ヘルシンキから戻ってきた。
滞在した6日間、タイミング悪く、雪がしっかり降り積もる前の時期だったので、
中途半端な寒さとべちゃべちゃのミゾレとブリュッセルよりも更に短い日照時間にやられて
一気に鬱モードに落ち込みかけたが、たまたま立ち寄ったスーパーマーケットで
ビタミンD3のサプリを見つけ、速攻購入。それで危機を凌いだ。

滞在中にやったことといえば、12歳の息子と10歳の娘といっしょに、
出崎哲監督の快作『うる星やつら 完結篇』や細田守監督の傑作『サマー・ウォーズ』のDVDをみたり、
ほとんど日本に行った事のない彼らのために日本食を作ったり、
彼ら(絶賛育ち盛り中)のための少し大きめの服や靴を調達するために古着屋をハシゴしたり
(フィンランドの某古着屋は安くて良質)、と言ったところがメインイベントで、
大体、どっちかと一緒に行動していた。
一人で何かやったといえば、早朝の散歩と夜の読書くらいのものだった。

散歩は楽しい。
ヘルシンキに行くときには必ず行く森林公園があって、
そこには長く入り組んだ散歩コースが設えてあるのだが、
それに沿って気の向くままに徘徊するのが、特に素晴らしい。
針葉樹系の木々や苔やシダの濃い緑や茶色に混じって映える白樺に見入れば、
樹皮や枝に寄生した地衣類の絶妙な薄緑やくすんだオレンジ色とその様々な形態も
視野中に広がってくるし、それらの下で踞っている岩石の重量感や
長年風雪にさらされてきたその風貌にも、視野の網が張り付いていく。

そういった視線や視点がリンクするし続ける諸々の事象を目に入る諸々を網羅しようと、
何か瞑想的観想機能のスイッチが入る。
スイッチが入って徘徊を続けると、外の情報が内に入りながら、内側の思考が外側に
繋がり始めて、あっちこっちで流動する思考素(思考の流れの基本になる粒子みたいなものだと思う)の
相互乗入れみたいな事が始まる。
そこら辺で周囲の環境との一体感みたいなものが自然に体を出入りし始めるのだが、
そうなると、さらにあれこれ思考が動き始める。

今回はたまたま直前に矢代幸雄の『水墨画』を読んでいたせいか、
あの枝を牧谿ならどう描くんだろうかとか、雪舟なら?等伯なら?八大山人なら?とかやってるうちに、
そのときはたまたま良い感じに霧がかかってたりしたもんだから、
なんとなーく周りが水暈墨章な感じに見えてきたりしたりするのも面白し。
そのうち、もしおれが描くんだったらどこをどう「省筆」するんだろうか、
どこを破墨したり溌墨させたりするんだろうか、とか
(描画能力が(マジで)幼稚園児レベルのぼくとしては埒もない事なんだけど)、
あれこれ想像しながら延々と歩くのもまた面白かったりする。

ここのところ歩き方を少しずつ改良し続けていることもあって、
歩いているときはかなり自分の体の動きに注意を払って観察するのだけど、
その視点と外部への水暈墨章的観察とが錯綜する感じは、
言ってみればフーガの技法的で、なにやら身も心も軽くしなやかになってくる感じがして、
結構な快感だ。

散歩しているいないに関わらず、この、複数ある焦点を軽やかに切り替えていきながら、
なおかつ、というかそうすることによって、そこに共通のテーマというか核心というかが
その姿の全体をほのめかしながら見え隠れしていく感じが、ぼくの好奇心を起動させる。
つまりそういうやり方はエロティシズムにも関わっていると思うし、
つまりはそれこそが生と死、とか、エロスとタナトスとかいうような、
結局は把握できない何事かの全体像を把握するための
唯一有効な手段なんじゃないかとも思う。

そういう手段というか方法の秘密が、例えば前回書いた本阿弥光悦の茶碗にはある
ような気がするし、バッハの楽曲のように含まれている様な気もするし、
ベルニーニの彫刻に刻まれた所作の様なものにも含まれているんじゃないかとも想像できる、
ような気もする。
してみると、光悦のことを書きながら思っていたことでもあるけど、
ある種の宗教的感覚(パッション)がその辺りの事に関わっている
ような気もする。

そういう意味では、鎌倉期から室町期にかけて、中世的意味でのいわゆる「芸能」に関わる人々に
時衆で「−阿弥」を名乗る人が多くいた事、
そののち、近世に向かってその「−阿弥」を名乗る人たちに法華宗の門徒が増えていく事、
が気になる。
または、例えば、禅僧である鈴木正三がどうして時に応じて念仏も有効だと考えたのか、
と言うところも気になってくる。
さらにその辺りから、悟道を目指す禅宗と成仏を目指す浄土門のあいだにある対立的要素を
ある種統合して別レベルの「現世利益」という目標に昇華させる事を目指したのが、
もしかしたら日蓮宗の人たちだったんじゃないだろうか、ということ想像してみると
さらに面白くなってくる。

いや、そろそろまじめに法華経を読むべき時期が来てるのかもしれないなあ、
とかなんとか思っている今日この時点です。
(今回は何の話してたんだっけ?)

お粗末。