花についての雑考。

第5期(2012年10月-11月)

さっき、蚤の市での買い物の帰り道、トラムに乗るべくプラットフォームでまっていると、
電光掲示板に、2分後に一本、そのさらに2分後にもう一本、ぼくが乗ろうとしている路線のトラムが到着する、と表示されていた。
水曜日、ベルギーでは主な学校が昼に終わるので、昼過ぎになるとバスやトラムはかなり混雑するのだが、
案の定、最初に到着したトラムはぎっしり満員。そこにさらに多くの乗客が乗り込んでいくのを見て、次を待つことにした。
ブリュッセルでは、バスやトラムに10分くらい待たされるのは普通のことなので、あと2分くらい、どおってことないのである。
というか、その時不意に、寺田寅彦の随筆「電車の混雑について」のことを思い出して、
次のトラムならばかなりの確率で椅子に座ることが出来るだろう、とヤマを張ったのだった。
再び案の定、次のトラムは蚤の市で買ったサムソナイトのトランクもまったく邪魔にならないほどガラガラで、
おかげで、ゆったりと座って帰宅することができた。寅彦先生さまさまである。
寺田寅彦といえば、ぼくは今回のように満員電車を思い出す他に、写真と映画と俳句とこんぺいとうを思い出すのだけど、
そんな風にあれこれを思い出させてくれる科学者というのは、なかなかいないなあ、と思う。
(あとはリチャード・ファインマンがぼくにとってはかなりの別格。)

寺田寅彦には「花物語」という、西尾維新のライトノベルの様なタイトルの随筆とういか、ぷち回顧録の様な文章がある。
昼顔、月見草、栗の花、のうぜんかづら、芭蕉の花、野ばら、常山の花、りんどう、楝(おうち)の花という9つの花にまつわる記憶をつづったもので、
ちょっと漱石の「夢十夜」のような風情があって好きだ。

最近読んだ梅若猶彦『能楽への招待』の冒頭で世阿弥の「却来華」という言葉が紹介されていた。
『風姿花伝』の中の「年来稽古条々」にある「時分の花」は、もちろんぼくでも知っているのだけど、
この、敢えて世阿弥が「華」と綴った(らしい)「却来華」ということばは始めて知った。
この本の中では簡単に、「世阿弥の思想である「却来華」とは、奥義を悟った能楽師にのみ許される、ひじょうにかんたんな曲にもどることです。」とだけ書かれているのだが、これがなんというかぼくには、例えば前々回に書いた本阿弥光悦の茶碗のことや、華厳経や法華経の「華」や、ついでに西行の桜や芭蕉の「よくみれば薺花咲く垣根かな」やらを一気に思い出させるインパクトがあって、そこを読んだ瞬間にぼくは本を閉じて、しばらく沈思熟考タイムに入ってしまったのだった。
沈思熟考したからと言って奥義を悟った能楽師になれるわけでもないので、考えるのはすぐやめちゃったわけだが、それにしても「元のところに戻ってきてこそ咲く華」つまり「却来華」とは物凄い言葉だ。
(ちなみにこの『能楽への招待』(岩波新書)。能楽師の内面の技法とその重要性について、かなりわかりやすく丁寧に書かれていて、驚いた。身体芸術に関わる人には特におすすめの一冊。)

「一即一、一」「反観合一」の原理で世界を記述し尽くそうとしたとも思しき『玄語』の著者として知られる三浦梅園は、彼の条理学の要諦を示しているとされる『多賀墨卿君にこたふる書』の中にこんな一文を残している。

「枯れ木に花咲きたりというとも、先ず生木に花さく故をたずぬべし。」

枯れ木に花が咲いたといって珍しがったり驚いたりするのは、まあわからんでもないけど、それより先にどうして生きた植物が花を咲かせるのか、そのことにまず驚いてその理由を探るのが先決じゃないか、というのが概ねこの文の意味するところで、いわゆる常識や習慣によって見えなくなっているものをちゃんと見れる様にすれば、そのうち物事のすじみち、つまり彼のいうところの「条理」が見えてくる、というところに向かって、そのあとの話は進んでいく。

人は何かしらの核心に迫ろうとするときなぜか花を想うことが多いようだ。
喜納昌吉の「花」もあれば、「ひと花咲かせる」という言い方もあるように、
花というのは、絶頂点にある生の容態や有様を象徴すると同時に、それがやがて散っていく果敢ないものであるという事も仄めかす。

    散る桜 残る桜も 散る桜
              良寛


その絶頂点というのは、何かを孕む直前のステージにあたり、鮭でいえば、故郷の河を遡上して卵と精子を放出するまでの期間。
性と狂気。恋に全身全霊を投下する季節。
そして絶頂点というのは、アドレッセンスな恋愛だけにあるのではなく、
恋の季節は循環してながら、時分相応の形をとっていくので、
ふと気がつくと別の形でそれが却来している、ということもある。
そういう意味では、人生の中で恋が何度も輪廻転生しているという風にもいえるんじゃないだろうか、という気になる。
そうしてみると、三島由紀夫の『豊穣の海』は壮大な恋の輪廻の物語だったのかもしれない、という気にもなる。

恋とは「乞い」であり、何か欠けたものを欲してやまない心持ちの事だ。
この思いが肉体的で直接的に表現されれば、例えばそれは有名なイザナギの口説き文句になる。

「わが身はなりなりて成り余れる処一処あり。故(かれ)このわが身の成り余れる処を以て、汝が身の成り合はざる処を刺し塞ぎて、国土(くに)を生み成さんと以為(おも)ふ。生むこといかん。」

さすがに古代はおおらかだなあ、と思う。というか、植物はもっとおおらかである。
花自体がもうまさに生殖活動の場であるわけだから、そのアケッピロゲ度は人間の及ぶところではない。
というか、そういう意味では、花というのはやっぱり生きているエネルギーの最突端に現れるものであって、
その内部に湧き上がっているエネルギーに相応しい形状も備えている。
内側のシステムとそれを最大限に稼働させるエネルギーが花の姿を魅惑的なものにする。
造花ではそうはいかない。

やっぱり内側の問題は大切なのだと思う。長い事、いわゆるコンテンポラリーダンスと呼ばれているものに携わってきて、
あれこれ技術や技法を学んできたのだけど、それらのほとんどすべてが言ってみれば、外側を格好よく見せるために外側をどう扱うか、ということに関するものであって、内側を充実させてそれに外側を連動させる、といった技術や技法に関しては、経験的に何となく身に付いたもの以外は、ほとんど学ばなかったような気がする。
学んだとすればコンセプトやテーマをどのように外部に反映させるか、といったところだ。(が、それは頭もしくは知識の内部の事であって「人間」の内側の事ではない。)そしてそのようなやり方はある程度有効ではあるんだけども、そのプロセスで極端に概念に集中してしまえば、人間の内側の事などは二の次になりがちだ。
生きた人間が、別の生きた人間の前に立ち、何かを伝えようとするならば、花のような内部の充実をもって、花のようにその場にある事ができなければ、作品のコンセプトやアイディアがどんなによく出来ていても、生のことは伝わらない。つまりは死の事も伝わらない。生と死が伝わらなければ愛の事も伝わらない。これらのことが抜け落ちたところでコンセプトにどれだけの力があるだろうか。

こういう風に考えたあとだと、禅というバカ深い思想で能の根底をエンジニアリングできるようにしてしまったということ自体、ちょっと有り得ないような話だ、と思う。世阿弥スゴし。もうコンセプトがドーノコーノとかのレベルじゃあ、まったくない。
そういう意味で、梅若猶彦氏が書いている、能楽師が持っている内面に関する技術というものに、とても憧れたりする。

もう一回、禅のおさらいしようかなあ。