恐い白、色々な黒

第32期(2017年4月-5月)

あれだけお稽古したはずなのに、やはり白い紙に向かうと、恐い。それは自由に書けばいいと言われているようでもあり、と同時に、見えない罫線が張り巡らされているようにも見えるからだ。せっかく作品のアイディアが浮かんできても、いざ紙に向かって筆を入れてみると、それは見るに耐えない字だったり、思い描いていたものとは全然違ったりする。せっかくのアイディアは、その瞬間に墨の泡となって消えてしまう。

もっと、思い描くようなクリエーションが出来たら… 自由自在に書けたら、もっと上手に産み落としてやれたらと、自分の腕の悪さを責めるばかりだ。

私が最近悩んでいることの一つに、創作への漠然とした不安がある。作品はいくつかあるけれど、自分は本当にクリエイティブなのだろうか、先生やその他大勢の素晴らしい書家のように、私も今後、作品がどんどん出来るのだろうか、自問してしまう。

そう思うのは、もしや私はインプットが足りないから、アウトプットが出来ないのかなと思って、自宅にある、ありとあらゆる書家の作品集を眺めてみたり、もっと美術館へ出て、いろいろなアートに触れた方がいいんじゃないか、と焦ってみたりする。

特に書道は、古典文献や先生のお手本を模写することから始まる、その特質のせいもあるのかもしれない。そして以前にも書いた通り、年に何十枚もの作品を生み出し、凝った額縁に表装するようなペースには、一生かけてもなれそうにない。それにそういった早いペースでは、本当に心の内を見つめて出来上がったメッセージのある作品とは、少し違うような気がしているし。けれど、考えてしまう。これだけ真剣に書に向き合っているつもりでも、自由自在に創作をするのは本当に辛い作業で、難しいことだ。もっと、ぽんと行けたらいいのに。作品作りの度にそう痛感する。せっかく浮かび上がったアイディアを「文字」という表現方法にトレースしようとすると、それは心で思い描いたものとは程遠いのだ。

書道の世界に、学校で習うような「書写」というカテゴリーと、「書」というアーティスティックなカテゴリーの二つがあるとしたら、今の私はお手本を綺麗に書き写す書写という行為はとっくに出来ているだろう。けれど、本当に難しいのは、ここから「書」の世界、クリエーションの世界に行くことである。ジレンマ。その二つを繋げる橋は、どうやら用意されていないよう。今まさに私は、その橋を自分の力で見つけ出し、渡ろうとしている。

ちょっと前までは、こんな風に感じなかった。以前は「書写」をするのに必死で、苦しかった。けれど最近は違う。

私は書家とは、いわばとても原始的なデザイナーのような仕事だと思っている。この文は、縦に何文字あるから、ということは大体これくらいの大きさで書かないといけないと計算したり、ここでこういう形を出すためには、こういう風に筆を動かさなければいけないなどと考えるからだ。書道をしていると、ある時から自然と感性が磨かれてくるのを感じた。それは、白と黒という、限られた二色の中で、ああでもない、こうでもないと試行錯誤し、そして紙のサイズは決められていて、いわば常に「レイアウトの美」を追求しているからである。それは、決して綺麗な文字を書こうという力が働いているのではない。

そして黒とひとくちに言っても、黒という色には実にいろいろな色合いがある。表情というか。
少し水を含んだ黒、もしくは完全に水を含んだ黒、そう思えば乾燥した黒もあり、真夜中のような黒、漆黒の黒、夜明けのような黒もある…。黒だけでこんなに何通りものニュアンスがあるというのに、どうして何色も使う必要があるだろうか。

黒とは反対に今度は、「これは白が目立つ」というような見方もある。あまりに一文字一文字の間隔が空いてしまったり、ここは何か物足りない… という感じがある時に使われる言葉だ。白が目立つということは、空間が空き過ぎているということで、それは整然とした、均整の取れた美しさは存在しないということになる。書の展覧会や、ものすごく上手な人の書を見ると、均整の取れた、整然とした美というものを一番に感じる。それはこのためだ。それが、「リズムを理解した」という結果であり、出来上がりにも繋がる。

IMG_1801

数週間前に友達と、ブールデル美術館で開催されている「バレンシアガ展」へ行ってきた。柿沼康二さんの本の中に、柿沼さんの師であった上松一條氏が「「また当時、書作品としては前衛すぎる「おまえはだれだ」という作品については、闇の中に光がある」と評してくれました。書のなかに”光”を取り込むのは最も難しいことです。」と、こんな一節があったが、バレンシアガ展でも、なんと同じような記述があった。

それは、「黒と光」をテーマにした部分だった。黒にも様々な表情がある。輝く黒だったり、マットな黒だったり。
ゆえに、同じ黒でもまったくテクスチャーの違う生地をミックスした、黒いドレスが飾ってあった。上半身はヴェルヴェットで出来ていて、腰元にはフェザーがふんだんに使われてあり、スカートの部分はサテン。書の世界でも同じだ、と思った。真っ黒でも、テクニックと感情次第で、それはとても難しいことだろうけど、光を感じさせることが出来るはずだ。黒がなければ我々は光をとらえ、その重要性に感謝することは出来ないし、相対する黒があるからこそ、光は生きる。

IMG_1808

IMG_1810

IMG_1809

IMG_1803

IMG_1802

IMG_1805

IMG_1806

IMG_1804

去年の夏に、自由課題のコンクールに出品した。普段から臨書していた王羲之の「蘭亭序」の一部分で、「宇宙」という二文字が出てくる箇所がある。私がお稽古したものを何枚か見て、先生が「真理ちゃんの、この”宇宙”という字がいいねぇ」と言ってくれた。その一言で、その部分を出品することに決まった。「蘭亭序」は、字もさることながら、意味が素晴らしくて特に好き。私が一番好きな箇所は、「時代が移って万事が変わってしまっても、人間が何かに感慨をもよおす所以というのは一致している。であるならば、後世の人が私のこの文を見て、なにがしか感ずるところもあるであろう。」だけど、私が書いた部分でも、

「仰いでは宇宙の広大なることに思いをめぐらし、俯しては万物の盛んなることを細かに見て、思うがままに目を遊ばせ心を解き放った」

こんな調子である。
書の世界には、ちょっとした小宇宙が広がっているのだ。

王羲之は中国東晋の書聖と呼ばれる人だが、その人気さゆえに、残念なことに真筆は一枚も残っていない。現存するのは後世に臨書されたものばかりだ。王羲之の書を臨書してみて初めて、その素晴らしさがはっきりと分かった。どれもゆったりとして、余裕があって、なぞっているこちら側までも豊かな気持ちになってくる感覚があった。当たり前だけど、相当に書き慣れた人だったのが分かる。特に計算せず、思うがままに筆を動かしたのではないのか、それでいて失敗がない。そんな気がした。書の素晴らしい点は数あれど、少し危ない人みたいな発言になるかもしれないけど(笑)、臨書していると、書いた人と、こちら側の気持ちがコネクトして、トリップするような感覚がある。私の好きな書の一つに、日本の空海が最澄に宛てた手紙「風信帖」があるけれど、なぞってみると、空海の書も実に素晴らしい。空海だけのリズムを体得、確立した感じ。ゆったりとしていて、自由だ。そこからちょっとした宇宙が感じられる程。

石川九楊先生も著書「書 筆触の宇宙を読み解く」の中で仰っていたが、書は実に、「なぞってみなければ分からない」。数年程前に、パリのグランパレで葛飾北斎の大規模な展示があった。連日それはものすごい人気で、長蛇の列が出来ていたのだけど、友人が仕事の関係で招待チケットをもらい、列に並ばずとも見ることができた。北斎の、現代でいう漫画のような初期の作品にまぎれて、掛け軸の形として、一部にかな文字が書いてあったものを見た。細い、優美な文字を、私はなぞってみたくなった。右手で空中に、同じように沿って、書いてみる。私のその奇妙な動きを、隣で見ていた仏人は不思議な顔で見ていた。美しい文字、気になる文字に出逢うと、どうしてもなぞりたくなる。そのリズムを感じてみたいのだ。

気になる文字といったが、それは外国でも同じだ。スリランカへ旅行した時、至る所で目にする現地のシンハラ文字が目に止まった。目にした瞬間、これは絶対に草書のリズムだろうと思ったのだけど、とある遺跡を歩いている時に、石で出来た案内板にシンハラ文字が掘ってあったので、絶好のチャンスと思い、私はそこを、指でなぞってみた。すると、なんとそれは篆書のリズムだった。筆先を丸め込むような始筆を要し、ぐいっと引く力がないと、一本の線だって書けない。驚いた。だからやはり、書はなぞってみないと分からない。

最近、私は王鐸と仲良くなろうとしている。連綿の王様、王鐸。私が持っている画集の中の解説にも書いてあるが、どんなに練習したって到底真似出来るものではない、それでも、少しでもこのニュアンスが出せるよう、近づけるよう努力する。書の道は、宇宙。やはり終わりがない。