「書道家は性格が悪い」

第32期(2017年4月-5月)

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今でも時々、自問してしまう。私は会社員だったのに、気が付くと書道漬けの日々。Facebookでしか私の近況を見ない友達には、より一層訳が分からないことだろう。『どうしてまりちゃんはこんなことになっているのか』と不思議がらせているに違いない。その辺のみんなよく分からない、気になるところをクリアにしたい。今に至った経緯について書いてみようと思う。

ちなみに私の書く文章は、長いというかしつこいというか、そんなに細かく書かなくても…と時々自分でも辟易することがあるくらいなのですが、どうかお付き合い願いたいです。

のっけからこんな喧嘩売るようなタイトルを付けてしまいましたが… これにはちゃんと訳があって。世の中の書道家の方々から、お怒りの声が飛んで来ないか、ビクビクしていますが…。どうか最後までお付き合い頂きたいであります。

そもそも、いろいろなご縁があって、ここアパートメントで書かせてもらえることになり、自分がやっているWebサイトに書くのと違って、無数もの人に読まれるというのは初めての経験のため、ものすごーーく緊張しています。

一体何について書くべきなのか、お話を頂いた一月中旬くらいからずーっと考えていましたが、パリに住んでいると言っても(正確には一年半前に引っ越しをして、今は近くの郊外で暮らしているのですが)、やっぱり今の生活の中心が書道なので、必然的に書道やアート、アトリエについて書くことになるなと思いました。

私は島根県の松江市という、まぁ「町」ではなかったと思うのだけど、でも都会にはほど遠い、小さめの「街」で育って、18歳の誕生日に京都へと移った。

大学の途中で、パリへ留学して、卒業すると、東京で就職。自分でも時々、『私って、会社員の振りをしているよなぁ…』と思わないこともなかったのだけど、私程度では会社員以外、生きていく道はないだろうと思っていたし、途中、一度転職をし、その結果、また別の企業で働く、働く。

そこで半年くらいが経った後、妙に仕事が一段落したので、『あれ、私これから一体どうなるんだろう』と身を案じていると、その時のボスから、春のある日、突然「パリの本社に来ないか、ちょうど空きがある」と誘いを受けて、パリに来たのが今から六年前。27歳の時だった。背後には東京タワーが見えることだけが取り柄の、古ぼけたビル。その日は春の光と相成って、ボスの後ろに見える景色は眩しいくらいだった。

なんだかいきなりフランスへ異動することになったはいいものの、基本的に日本にいるフランス人と、本国フランスにいるフランス人は到底ソフトさが違うというか、全然違う人種なので怖かったし、フランス本国で働いた経験はてんでないし、それもまったく違うポストに… と、恐れ、迷いもしたのだけど、オファーをもらった時、私はまだ27歳で、若く、飛び込んで人生を変えてみたいという、勇気があったのだと思う。それに、このままずーっと東京で暮らしていくビジョンが持てなかったため、思い切って « Oui »と言い、オファーを受けた。

それから四年近くが過ぎるも、忘れもしない、あれは2014年の7月1日のこと。社内でもいろいろあった結果、私に降ってきたのは、突然の解雇通告。その時はもう、夫に出会っていて、解雇通告された日はなんと一緒に暮らし始めた初日(!)だったため、当然私の中に「日本へ帰る」という選択肢はなく、これからパリで新しい道を探して行かなければならないという岐路に、なんだか突然立たされたのでした。

そこから私がまず第一に考えたことは、今まで自分には、きっと他に向いていることがどこかにあるはずなのに、という気持ちを隠し続けながら、自分に嘘の蓋をし、東京でもパリでも、会社員の振りを続けてきたということ。

思い返してみると、実は中学、高校生の頃、美術系の高校、もしくは美大に行ってみたいなぁというぽわーんとした考えがあったのにも関わらず、私程度では美大なんて到底無理無理、なんとなく普通の四年制大学に行かなければという、自分の中での固定観念が拭い切れず、誰にもそんなこと話さなかったし、美大には志願しなかったこと。とか言いつつ、結局自分の頭では、行ける大学なんて限られていることがすぐに分かり、自分の高校から、東京のとある、私立大学の哲学科へ提携校推薦をお願いしようか、哲学興味あるし。いや、アメリカの大学へ行こうかと散々悩み、両親を困らせ、結局は京都にある、いわゆる外語大へ行ったわけです。定まっているようで、よく定まっていない。それが私。

私には同じくパリに暮らす妹がいるのだけど、私は妹とは違い、フランスでいばれるような学位を取ったわけではないし、企業のバックアップなしには、私程度の学歴では、到底フランス社会でまた同じような職に就くことは出来ないだろう、と考えた。それならいっそ、「私はパリにいる日本人なんだ」という点を生かそう!と、ある種発想の転換をし、シフトすることにしました。一種のマーケティング的対策というか。

それが正しかったのか分からない。今でも自問自答したり、迷うことはある。けれど、去年からこちらの学校で教えるポストを得てから、なんだかこっちの方がとっても自分らしいようで、ようやく、しっくりきているのであった。

私はパリのファッション業界の片隅で、デジタルの担当として働いていたのだけど、「フランスの超強い女社会」で働く現実を知り、気を遣って神経はすり減り、従って毎晩ワインの量は増え(笑)、また当時、私は一人チームで、仕事量も膨大だったこともあり、それはそれは必死で、強い女たちを前に自己主張は出来ないし、なんだか日本人である自分を捨てなければならず、そのことが一番辛かった。当たり前である、日本人をフランス人にはトランスフォーメーション出来ないんだから。

それでも健気に、頑張ったらいつか出来るようになる!と信じていたものの、辛くて辛くて、泣くことがしょっちゅうあって、このままフランスに定住するなんて思いもよらなかったし、それに毎日届く膨大な数の履歴書を目にすると、私よりもこの仕事に向いている子は五万といるよなぁとか、抜擢してくれたのは嬉しいけど、本当に私でいいんだろうかとか、私にはこの仕事が100パーセント向いていないという感が、常にまとわり続けた。

だから14歳、15歳の頃から、「自分はアーティストタイプなんだから、それに合った道に進むんだ!」と腹をくくれたらよかったものの、そうははっきり言えない、恐がりで、臆病なタイプだったので、どうしようもない。

とりあえず、世間一般でよかれと思われている道を行くべきだと考えていたので、アートの道へ進むのは、ひどくリスキーで、(両親に対して)失礼なことに思えたのだ。(私のこういう、役に立たない真面目さというか、責任感は一体どこから来るものなのだろう。先生は、「長女だからよ」と言うけれど、果たして本当にそうだろうか。)

パリに来てから二年目の夏、ようやく仕事にも慣れたせいか、私は空いた時間に、何か趣味の時間を持ちたいなぁと思い始めた。

そこで、前から気になっていた書道教室の案内へ、メールを送ってみる。子どもの頃から高校を卒業するまで書道は習っていたので、パリで師範が取れるというのは夢みたいだったし、どういうシステムなのか気になっていた。そこで現在の師、パリの先生に出会うわけだけど、初めて会った日のことを、今でも強烈に覚えている。

「とりあえず一度アトリエを見に来て下さい」とお誘いを頂いたので、確か月曜日だったと思うけど、私は仕事帰りに寄らせてもらうことにして、業界上、いつも好きな格好をして仕事に行けばよかったのだけど、その日はちょっと、『さすがに派手かな…。今日はアトリエへお邪魔するという用事がある日なのに、先生に「とんでもない子ね!」とか思われたらどうしよう』と少し心配していた。

しかし、いざアトリエへ行ってみると、なんと先生は金髪、ブロンドで – しかもそれがものすごく似合っている! – 要はさすが芸術家というか、ぶっ飛んだ容姿でいらっしゃったので、私の心配は杞憂に終わり、今更ながら「芸術は爆発だ!」という岡本太郎氏の言葉が思い浮かんだ私は、一瞬でこのアトリエのことが好きになっていた。

見学の際、後から一緒に机を並べてお稽古に励むことになるイタリア人の女性・アレクサンドラがいて、彼女がものすごくニコニコと接してくれたのを覚えている。そしてイタリア人なのに、ものすごく上手だった。聞くともう四段とのこと。なので、フランス人なのに、とか、イタリア人なのに、というつまらない固定観念は、すぐに吹っ飛ぶことになる。(この時はまだ視野が狭かったんだねぇ。恥ずかしい。)

アレクサンドラが書く様を見ると、私はまだ筆を触らせてもらったわけでもないのに、すぐに書きたくなって、「入会させて下さい!来週から通わせて下さい!」と、まるで叫ぶようにお願いしたのだった。

私がパリで書道を再開したいと言うと、母は、「どうして普通の子みたいにパン作りかお菓子作りをやらないの。コルドンブルーにでも行ったら?」とあきれたが、別に私じゃなくてもいいというか、私がしなくても、パン作りをする子は五万といると思うし、コルドンブルーにはとてもじゃないけど入学出来そうもないので、興味が持てない。

私は自分の人生において、「私じゃなくちゃいけないこと」をやっていきたいと思っている。私だけにしか出来ないことをしたい。私だけの人生を生きたい。(パートナーや子どもはいらないよ、という意味ではないです)

この連載では、専門的・歴史的な話は別にして、主に私が普段、書について思っていること・考えていること、私なりにアートについて、述べていきたいと思っています。

最後に…
私がパリで書道をやっていきたいと言うと、あきれた母とはよそに、父は反対こそしなかったが、唯一私に言ったのが、「書道家は性格が悪い。性格が悪い書道家にだけはなるなよ」という言葉であった。

父はエンジニアで、長年高校で教えてきたので、書道と高校教師を兼業している人々と出会う機会があったのだと思う。「あの人上手ですよねと話しかけても、どいつもこいつも自分以外は見るにも及ばなくて、自分が一番上手いと思ってる。性格が悪い!」、とのこと…。(それについてはこの連載の中で、どうしてなのか説明していきたいと思っているが…)
それだけ言うと父は、いろいろと思い出したようで、憤慨しておった。一体何があったのか。。。

なので、私は父のその言葉をいつも胸に、会う人には満面の笑みで接し、他の人の作品も敬意を以て鑑賞し、私なんか何でもない!と自分を戒め、過信することなく、いつも心は広く、柔軟でいたいと思っている。これ、本当。間違っても「私は書道家です」と自分から名乗る日は来ないと思うし、ましてや「アーティスト」とも、フランス語でだったらまぁ、アーティスト友達とつるんでいるせいもあって、言わなくもないけど、実はこっ恥ずかしくて、自分の口からはなかなか言いづらい言葉である。小心者なのだ。

いっそのこと、腹をくくって、父の言うように性格の悪い書道家になれたら、どれだけいいだろう。自分から自信を持って堂々と、「私は書道家です」と、髭を蓄えて、名乗れるような。

けれど、私の性格ではそれは難しそう。どういう風になるのか分からないけれど、こうして本来進むべきであったと思われる道に、しかもここパリで没頭出来るのは、ものすごいチャンスだと思っているし、フランスに感謝している。だから惨めにも戦力外通告されたあの日、私の人生は、今まで蓋をしてきた、自分が本当に向いている、やりたいことへ自分を捧げなさいという、罰というか、メッセージだったのだと思っている。

その答えを見るための長い旅が、四年前初めてアトリエを訪ねた時から、始まっていたのだった。