どきどきさせたら勝ち

第32期(2017年4月-5月)

日本の芸術は、茶道でも華道でも柔道でも合気道でも剣道でも、そう。「書道」とは書の道であり、その道のりはひどく長い。一生勉強である。A long way to go.

十年勉強しても、まだ、赤ちゃん。前に、フランス人で合気道の大家と話したことがあるけれど、彼自身も、文字通り、いい具合のおじいちゃんなのだけれど、「自分の腕ではまだまだ日本の先生には認めてもらえない、ほんとうに長い」と苦笑しながら話してくれたっけな。フランス人なら、その長さに耐えるのはほんとうに大変なことだと思う。

けれど、私に限って言うと、終わることがないからこそ、その長く、果てしない旅に魅せられているのも事実なんである。

書と言うと、私が地方で育ったせいか、世間知らずなせいか、『なんだか古臭くて、読めもしないし、伝統と古典という枠に閉じ込められて堅苦しい』というものばかりで、そういうのはいやだなと思っていたのだけど、私のその考えは、パリの先生に会ってから徹底的に覆させられた。

こんなにもモダンで、洗練された白と黒の世界があったなんて!!全然古臭くない!!まさに、目から鱗が落ちる思いであった。自分の無知を恥じた。それでいて、この強さ。一つ一つの線に込められた、力強さが伝わってくる。

とにかく先生の作り出す線、作品たちは、今までの書道に対する、どんな考え方をも凌駕してしまうように斬新で、スタイリッシュで、そして常に「パリ的センス」に溢れており、私は自然と、『もう会社員なんかしてる場合じゃない!』と、一人で勝手に盛り上がって、先生のようになりたいと、めちゃめちゃ刺激を受けたのだった。アトリエへ行くと、いつもどきどきして帰宅した。そして自分の腕の悪さに落ち込み、それはまた、次回アトリエへと行くモチベーションとなった。

アートは手芸、クラフトとは違う。アートとは心の泥だ。作品を産み落とすのがどんなに辛いことであるかを物語るように、アートとはもっと、どろどろして、心の奥底からようやく紡ぎ出したようなメッセージをもって生まれてくる、綺麗なものばかりではない。テクニックも大切だが、アーティストがどうしてこの作品を作ったのか、その背景、ストーリーが知りたい。そして書とは、言ってしまえば綺麗な染みである。どうせなら綺麗な線を、綺麗な染みを書きたい。

アトリエのイベントで、毎年一月にみんなで書き初めをする。そのためにも、最低でも年に一回は何か作品を作ることに決めているのだけど、テーマを決める際、それはやはり、その時の心の機微が反映されるのであって、その時の心に応えるものにしたいと、まずはじーっと、考え、自分を見つめることから始めるようにしている。
何かこれだ、という言葉が降ってくるまで待つのだ。

それこそが作品におけるメッセージ、心髄、バックグラウンドになるのであって、このプロセスは大事だと思っている。作品の核となるところ。

アートはどきどきさせたら勝ち。例えば、草間弥生さんの水玉も、ただの水玉でも、観ているこちら側の心がざわざわさせられるような感覚がある。強烈な色合わせのせいかもしれないけれど、あれこそはやはり、立派なアートである。あの心がざわざわとさせられる感覚、それを呼び起こすものこそ、それこそがアートの正体ではないだろうか。

今年私は書き初めで、「急がば回れ」という諺を書いた。今年はなかなか書きたい言葉が見つからず、苦戦したのだけど、日頃から夫が、

「梅の花とか、そういう真面目な言葉ばかりじゃなくてさ、(パリのメトロのアナウンスで流れる)『足下にご注意ください』とか、そういうもっと « fun »なことを書けよ。そういうのがパリジャンは好きなんだよ」

と口を酸っぱくして、これでもかと言ってくることもあり、そしてそういう彼の批評というかアドバイスは、私がつい、トラディショナルで堅いことばかり書こうとする傾向があるので、非常に的確で、名プロデューサーになってくれるよなぁと、内心感謝していることなのだけど、今年こそはいい加減その言葉を参考にして、かねてより彼のリクエストであった« fun »なこと、つまり「急がば回れ」を書こうと決めた。前述の通り、ちょうど自分の心境とも一致したので。

書道パフォーマンスの場合、まずはどの書体で、どのサイズの紙に書くかというのも見せ場の一つで、慎重に考えねばならない。何も決まっていないにしても、「回れ」の「回」の字だけは、どうしても渦のように書きたいと、はっきりと分かっていた。

そうなると「急」の字もそれに合わせて、崩さなければならない。先生の、「”心”がある漢字は、どれも難しいよ〜!」と横から飛んでくる言葉がチクリと胸を刺す。だけど、もう後には引き返せない。

書き初め当日もこだわった通り、「回」の字は思いっ切り渦のように、洗濯機のごとく、力強く書いてみたのだけど、書き終わってからのスピーチで、「この « 回 »という字は、『循環』の意味もありますが、まさに渦のように書きたかったので、その点にはこだわりました」と言うと、後で観客の方から、

「あなたが『渦』って言葉を言ったから、それで、ある歌を思い出したのだけど、名曲なのよ。これはフランスで暮らして行く上で必須の教養になるから、あとで絶対にYouTubeで観ておいてね!」

と興奮気味に言われた。「私のしたことであなたの中で何かを思い起こさせたのなら、それは私にとって本当に嬉しいことです。ありがとう!」とお礼を言ったのだけど、すると彼女は、「そりゃそうよ、だってあなたアーティストじゃない」と言ってくれたのである。くー、いくら貧乏でも、アーティストでよかった!アーティスト冥利に尽きる。というか、アーティストってそうじゃないとなー、と、はっきりと思わされた出来事であった。(だからいまいち、まるでマシーンのようにあまりにもたくさんの作品がある人のことは、どこか信用出来ない。子どもの清書じゃないんだから。)

どきどきさせたら勝ち。ざわざわさせてもいい。観る者の心の中の何かを呼び覚ますもの。それがアートであると信じている。

せっかくフランスにいるのだから、真剣度120パーセントの、真面目で古くさい書になっては残念な気がする。かと言って、複数色を使い、お花の絵を飛ばして、漢字一文字を添えるようなポップな書にも興味がない。くせ字もいけない。私はパリで、パリの先生がやっているようなことが再現したい。モノクロの美、シンプリシティで勝負したい。そこに辿り着くのは、まだ何万年もの長い修行、道のりが必要な気がして、もしかして一生では足りないのではないか、時々目の眩む思いがするけど、アトリエの性質が、「超スパルタアーティスト養成講座」みたいな気もあるせいで、たったの五年でも、相当に鍛えられたような気がする。日本で子どもの頃、ただ嬉しくてひたすら書いた、無心な気持ちとは少し、年をとった分違うのだ。私もようやく考える力がついたということか。

無事師範が取れて、数年が経つけれど、最近になってようやく自分の中で確信というか、自信がついてきたのが分かる。その辺の微妙な葛藤について何も分かっていない夫からは、「いつになったら教えるんだ、さっさと早く教えろ」とか、先生も何かあると優しく、「もう教えてもいいね」とか言ってくれていたけど、どうしても自分の中でまだ早いような気がして、合点がいかなくて、踏み出せなかった。臆病な私。けれど、今年こそは始めの一歩を踏み出せそう。ようやく時が熟したような気がしている。こういう気持ちもあって、今年は「急がば回れ」の年なんである。

本気でやってみたいけど、本気で怖い。それこそ、本物の気持ちだと思っている。いざ。

IMG_1612

IMG_1614

IMG_1615