おとなの五教科_1花の分類について

第36期(2017年12月-2018年1月)

IMG_0368

IMG_1311

高校までに教わる教科の勉強なんて、
社会で生きていくには、ちっとも役に立つはずがない、と思っていた。
目に前のテストや受験に「使えたら」、それでいいと。

それは多分まちがっていなくて、
だけど、この歳になるまで(どの歳だ?)生きてくると
なぜか、ふと、突然、
「ああ、あの定理って、こういう人生の文脈の中では、
つまり、こういうことを説明してくれていたわけね!」と、
まったくもって、正解からは程遠い、勝手な解釈で、
教科の用語が、記憶の淵から、やや老化してきた大脳のシワというクレパスの淵から
蘇ることがある。

アパートメントに間借りする8週間の間は、
そんな用語にまつわる勝手な解釈のハナシを綴っていこうと思う。

今日は、中学理科、高校生物の用語から。
花、というより、植物?の分類について。

—————

私が暮らす小さな家は、この町で2番目に高い山の麓にあって、
(2番目に高いと言っても、標高300M足らずなのだけど)
私の前に、この場所で暮らしていた老夫婦が残したいろんな植物や低木が、季節ごとに花を咲かせてくれる。

つい2週間ほど前、そんな先人が残した植物の1つ、紫陽花の株を前に
秋が、確実に冬に変わった「時間」を見ていた。

初夏から夏にかけて、水色から青色のグラデーションを描いていた紫陽花は
9月になった頃から、彩度が落ち、くすんだ赤紫が部分的に残るのみとなり、
それでも、まだ完全に枯れてはいなくて、それはそれで心地よい風景になっていた。
けれども…11月に入り朝晩の冷え込みが厳しくなり雨の日が続き、
ふと気がつくと、紫陽花のかすかな色が消え、薄茶色の塊となっていた。

実をいうと、紫陽花の花は、高校生の頃からあまり好きではなかった。
自転車で通う通学路に、紫陽花の垣根というくらい、何株も道沿いに植えた家があった。
花の季節はいいとして、すべての花(正確には「がく」らしい)が枯れてもなお、
地面に落ちることなく集団でしがみついている姿は、茶色い塊が連なる風景として、
うっすらと感じた嫌悪感とともに、記憶の片隅に残っている。

それから何十年も過ぎ、田舎暮しを始めて存在を意識するようになったのが、山桜だ。
暮らす家の山側に、広葉樹や松の木に混じって、山桜の木が1本、ひっそりと立っているののだけれど、
その存在に気づいたのは、花が咲いてから。
正確に言うと、庭にハラハラと散ってきた花びらで、その存在を知った。
そうだ、桜は、枯れる前に散るのだ。

枯れる前に、ひとりひとり散って舞う、桜。
枯れてからも集団でしがみつく、紫陽花。

被子植物と裸子植物
単子葉類と双子葉類
離弁花と合弁花……

植物の分類法は、中学校と高校で、いくつか教わったけれど、
サクラ系とアジサイ系・・・、そんな分類も、人生を学ぶには必要だ。

10代の頃のように、枯れた紫陽花にうっすらと嫌悪感を覚えることもない。
桜のように散って舞いたい、と思う潔さも持ち合わせていない。

この文章を書きながら考えているのは、紫陽花を見届けてみよう、ということ。
枯れてしまった紫陽花は、どんな風に新しい花と入れ替わるのだろう。
ずっとしがみついているものだと思い込んでいたけれど、
いつかはやはり、落ちるのだろうか、椿のように、ぽとん、と。塊のまま。
桜のように、人知れず、1枚1枚剥がれ落ちて舞うのだろうか。
それを合図に、新芽が出て葉が茂り、次の花が生まれてくるのだろうか。
冬から春に、そして初夏にかけて、いのちの残酷さと慈悲深さを見届けてみよう。