円と北千住

第44期

なにかにつけては海を見にいく。
比較的町のなかで育ったほうだからか、海のことはいまだにものめずらしく思っている。ものめずらしくて、かっこいい。波のかたちが変わりつづけ、潮が満ちてくるのをみていると、癒される、かどうかはわからないが、うっすらとうれしい気持ちになる。
一部の町のひとたちも似た性質を持っているらしく、SNSでは海や山の写真をよく見かける。町で暮らしていると、どうしても自然のものに触れずにいられない瞬間がくるのかもしれない。町はひとが作ったもので、自然のものはそうではないからだろうか。

わたしが海を見に行くのは、自分より大きくてわけのわからないものを見たいからだ。砂浜だろうが港だろうが磯場だろうがかまわない。かならずしもエメラルドグリーンでなくてもいい。
巨大な水が一定のリズムでゆれる。それがどういう規則なのかわたしにはわからない。もちろん海を全面見渡すことはできないし、まして水面の奥になにたちが暮らしているかは想像も及ばない。それでもそこにはゆれがあって、視界をはずれた先にもおそらく海はつづいていて、生きものの気配もする。わたしが立ち去っても、それは変わらない。

多層に重なった円のなかで暮らしている、というイメージをもつことがある。ちいさな円は家族、大きな円は国、中くらいのところに友だちや仕事や近所のひと。自分は同時にいくつかの円に所属していて、ときどきでそのうちのどれかを意識したり、しなかったりする。円のなかにいるのは、それがどの円であろうと、ときに心やすく、ときにうんざりする。
それが、巨大でわけのわからないものを見ると、うんと拡大される。国や世界よりもはるかに大きい、わたしには見渡せないほどの円があって、そこに自分が立っていることを感じる。そうすると、心やすさもうんざりも霧散して、ただ、やむなく立つだけの自分になる時間が、すぎていく。
うっすらとうれしい。

ところでときどき北千住にいる。学生のとき町屋と北綾瀬にそれぞれ通っていたのと、いくつか縁のあるアートスペースがあることもあって、みょうに付近を訪れる機会がやまない。何度か行くと好きな場所や店ができてくるもので、近くまで来たから寄ろうかな、なんていって、わざわざかまぼこを食べに行ったり、荒川に座りに行ったりする(川には海とはべつのよさがある)。
北千住はとらえがたい町だ。大きな駅ビルを出てすこし歩くと、たちまちおしゃれなカフェと、筆字の銭湯と、たくさんの居酒屋、屋根つきの商店街がならぶ。どこに立っていても向く方角を変えるだけで意外なものが目に入る。コンドームの自販機があったり、手狭そうに建物が並ぶ細い通りを抜けたとたん、巨大な踏切とガードが燦々としていたりする。
とらえがたい町のなかでは、よそものでいることが快い。新装開店の居酒屋と年季の入った落書きがそれぞれそこに置かれているように、自分もここに置かれていていいような気がしてくる。わたしは北千住のことをそこまで深く知っているわけではないけれど、知らないぶぶんがあることが、かえって快さを増す。

これが、海を見ているときとごく近いうれしさなので、自分でおどろく。
わたしを含めたみんな、ともするとひとの作ったものを離れて、自然のものを見に行こうとする。そういうとき、町が比較対象となって悪く言われることもある。緑色を見ていると目にいいとか、マイナスイオンとか、潜在意識とか、インスタ映えとか、ほかにもいろいろ理由はあるのかもしれないけれど、「大きくてわからないものに触れたい」という欲求は、ある程度共有されているのではないか。
ところが、北千住という町には、ちいさなわからないものがたくさんある。みたところとらえがたいもの、しかしおそらくなんらかの理屈をもってそこに存在しているもの、それらがひしめきあって、結果的にひとつの町を形成している、ように見える。そこにふしぎな必然性さえ感じる。
そういう場所はおそらく北千住だけではないだろう。ごくちいさなところに目を凝らせば、多かれ少なかれどんな町にも、わからなさ、みたいなものが隠れているのかもしれない。それは海のような。

ひとが作ったもののなかに、ひとの手を超えたものが宿ることがある、ということを、わたしは直感的に信じている。ひとの都合を超えたもの、といってもいい。たとえば、家族の都合、社会の都合、国の都合、そういうちいさな都合をはるかに超えて、もっと大きな円に属するものが、ひとの手によって作られることがあるのではないか。
はじめにそう身体で思ったのは、ミャンマーでエイズに罹患した女性のための施設に行ったときだった。女性たちに仕事を与えるため機織りの技術を教え、製品を売って生活費を得ている施設だ。その機織りのさまの、なんと入り組んでいて、うつくしいこと。縦横に渡る色とりどりの糸と、リズミカルに交差する指と足踏み。
わたしは詩を書くけれど、詩を書くという経験のなかにも、そういう瞬間はときどきおとずれる。じぶんのワークショップやなんかで、目の前で詩を書くひとの手つきを見ていてもそうだ。詩や音楽はもともと神さまに捧げるものとしてはじまったという。大きな円のなかに立つ感覚を自分の部屋で得るために、詩を書きつづけているのかもしれない、と思うことさえある。

海はわかりやすく大きく、にんげんを突き放してくれるので、ありがたい。ふしぎなもので、突き放されてかえって自分を巻く巨大な円の存在を感じ、つながっている、とさえ思う。つながっている、と思うことで、むしろ放たれたようなきぶんになるのもふしぎだ。
しかし、海よりももっとわかりづらく、ささやかに、ひとの都合を超えたものがおとずれることもあるとしたら、それはむしろ町のなかでひんぱんに起こるのかもしれない。ひとが作ったものどうしを多層に重ねあわせた現象としての町。
そして、ふだん気にしているよりもっと果てなく、もっとわけのわからないところで、わたしたちはつながりながら暮らしているとしたら。
そう思うのはすこしセンチメンタルすぎるかもしれない。