水道橋が好きだ

第44期

東京のなかでは水道橋が好きだ。
まずおいしいごはん屋さんが多い。これは具体的にどこがおすすめとか行きつけとかいう話ではなくて、多い、ということそのものがいい。なんなら、さして色々なお店に行ったことがあるわけでも、グルメに詳しいわけでもなく、多いらしいな~と聞いている程度だが、それでも十分にいい。わたしはよく歩くので神保町お茶の水あたりまでごっちゃにしている気もする。
おいしいごはん屋さんがひとつの街にたくさんあっても、実はそこまで役に立たない。実際に行けるのは一食につき一軒だけだからだ。でもそれでいい。たくさんの選択肢のなかからじぶんの意思でひとつを選べる、というのは、ときにただたくさん持っているよりもゆたかだ。
だから、水道橋近辺に用事ができると、今回はなに食べようかなあ、と浮き足立つ。おいしいものを食べることももちろん好きだが、むしろその「なに食べようかなあ」のほうに惹かれている。

川もある。よりすばらしいことには、川と並行して線路が走っていて、電車と、川面に映った逆さまの電車とが並行して遠ざかるところが見られる。都心らしく、たえまなく何本も、何本も。とりわけ水がきれいなわけでも、かわいい生きものが見られるわけでもないが、都会の川には都会の川なりのよさがある。
夜になるとなおさらいい。
わたしは光を反射したり内包したりしている水のことがとにかく好きで、たとえば海、朝露、ガラスのコップに入った水、雨上がりの水たまり、噴水、櫂の一撃、とけかかった氷、川が石に堰き止められて、はじけながら分裂する地点。それらを「ひかる水」と総称してひとしく愛している。光、という要素が偶発的なので意図して見にいくことはないが、たまたま目に入ると「ひかる水をみられてよかったな」と思う。縁起物みたいなことだ。
水道橋では、夜になると電車の灯りが川にうつる。空中には本物の電車が、水面には光だけになった虚像の電車が、並行してすらーっとすべって、遠ざかる。案外人通りは少なくしずかだ。小さな橋の欄干にもたれて、何本も、何本も見送っていたくなる。

はじめて水道橋駅で降りたのは中学一年生のときで、遊園地に行くためだった。またそれがはじめて子どもだけで遊園地に行った日でもあった気がする。苦手な友だちも来ていて、わたしはあまり気乗りしていなかった。
ここからは、わたしの記憶だけに頼った話になってしまう。
駅から遊園地へ向かう途中、後楽橋という橋を渡る。そこへさしかかり、視界がひらけるやいなや、目の前になにか白いものたちが、いきおいよくあふれかえった。
それは無数のかもめの群れだった。
とまるでも去るでもなく、橋のまわりを回遊し、羽ばたき、群がっている。みな羽を広げており一羽一羽が巨大に見える。足元の川から頭上の空までかもめの白いシルエットで埋まっている。
わたしたちはいっぺんに見とれてしまった。歩道橋から身を乗り出し、さわれもしないのに空のほうへ手を差し向けてはしゃいだ。
そこからあとのことはなにも覚えていない。遊園地でなにに乗ったかも、苦手な友だちとどう折り合いをつけたのかも忘れてしまった。思い出そうとすると、膨大なかもめの羽ばたきが視界をジャックする浮遊感だけが、反復される。
時間が止まる。
いまでも後楽橋でかもめを見かけることはある。ただ遠くに一羽、二羽いるだけだ。海鳥といういきものは時代によっていたりいなかったりするのだろうか? あるいはあれはわたしの記憶違いなのだろうか。

ひかる水、のことを、わたしは祝福のように思っている。たまたまあらわれるうつくしいもの、予期せず目の前に降ってくるもの。
むかしから、わたしの中には、空からこちらへ、木漏れ日や、滴や、落ち葉や、蝋燭が、たえまなく降ってくる……というイメージがある。予感といってもいい。これは何からもらい、いつから抱いている心象だろう。かもめの大群を見るよりも前からである気がする。なにか大きなほうから与えられ、小さくて抽象的で光っているたくさんのもの。
そして、そのイメージが現実に再生するのを、わたしは待ちのぞんでいる気がする。
たえまなく降る金色のかもめ。それをうけとめてはじける、ひかる水面。

八木重吉という好きな詩人の、みじかい詩がある。

花がふってくると思う
花がふってくるとおもう
この てのひらにうけとろうとおもう

読むたび、このように書くことのゆたかさと慎ましさが、それぞれたまらなくなる。あふれるほどの祝福のなかから、ちいさなてのひらが受けとれる、ひとつを選んで。