渋谷の地下道は住みなれた廃墟

第44期

ときどき誤解されるが、わたしは自分が書く内容についてよく知っているから書くわけではない。まったくの逆で、わからないから、どうしようもなく書きはじめるのだ。
わたしは思考を拡散させがちで、ただ思いをめぐらせているだけだと内容があちこちへ氾濫し、かえってぼんやりしてきてしまう。書くことでそれに順序をつけ、足し引きし、輪郭をはっきりさせることができる。わたしにとって書くプロセスは、考えることそのものなのである。

この連載で町のことを書こうと思ったのも、第一には町のことがよくわからなかったためだった。
町とはなんだろうか。
あたりまえに使う言葉だが、いざ聞かれるとむずかしい。「まちづくり」とか「まちおこし」なんていわれるとなおさらわからなくなる。
ぱっと思いつくのは、「建物と人が集合している場所」というような説明だろう。でも、仮に渋谷からまったく人がいなくなってしまったとして、そこは町であるとはいえなくなるのだろうか。そうではないような気がする。しかし建物だけがあれば町になるかといわれたら、それもまた違和感がある。
また「切り分けられたある地域」を町ということもできそうだ。しかしそういったとき、町と町でない場所とはどこでどう区別されるのだろう。ナンセンスな問いだが、森ははたして町だろうか。
「ふるさとの町」「住んでいる町」なんていうとき、わたしたちはどこからどこまでをひとつの連続した町としてとらえているのだろうか。その線引きと、地図上での区画とは、じつはまったく異なっているのではないか。
もちろん、こういう問いに対する専門的な応答は各所に書かれているとは思うのだが、その実わたしはこう問いたいのだ。
わたしにとって町とはなんだろうか?

「町」というトピックスが気になりはじめたのは、沖縄に移住した知人と渋谷で会ったときだ。ふたりで人混みをかきわけながらようやくお店に入り、大きく息をついて、その人はいう。
「渋谷苦手なんだよ。人多いし、わかりづらいし、臭いし、沖縄に移ってからなおさらそう思うようになった、東京にいたころはよく平気でいられたなあと思うよ」
へえーとかいって、わたしは答える。
「あ、そういわれると、わたし渋谷のことそこまできらいじゃないかもしれません。よく通るので地下道とかほとんどわかるし、ごちゃごちゃはしてるけど、住みなれた廃墟みたいなかんじで悪くないです」
「住みなれた廃墟!」
その人は笑い、それっていいねといってくれる。

ごく何気ない会話だったけれど、帰りに渋谷の地下道にもぐっていきながら、急に渋谷のことがいつくしくなった。答えてみるまで自分が渋谷のことをそんなふうに思っていたとは知らなかった。むしろすこし苦手だと思っていたくらいだ。ハロウィンやワールドカップで狂騒するところも、常に新しい商業ビルが増えつづけているところも、ぜんぜん好きじゃない。
それでも、なにか渋谷のあちこちを歩くうちにわたしのなかに蓄積されてきたものがあるらしい。あそこには近道がある、あそこには安くておいしいご飯屋さんがある、あそこには落ち着く椅子がある、というように、わたしのなかにはわたしの組み上げた渋谷の地図があり、また渋谷には歩き回るわたしの残像が残っている。いうまでもなくその上にはたぶん、見知らぬ無数の人たちそれぞれの地図と残像がまた重なっている。ばらばらの軌道で、長時間露光の写真のようなひかる軌跡を残しながら。
それは、たとえば思い出が増えて愛着が湧く、というような感覚とはすこしずれている。思い出はひとの側に残るものだが、わたしがいいたいのは町の側に残るもののことだ。擬人法的な修辞を抜きにしても、町はなにかを記憶したり、蓄積したり、記録したりする機能を備えているのではないか。

さて、これは矛盾しているように聞こえるかもしれないけれど、わたしがわからないことをわからないまま書きはじめるのは、それでもどこかではすでにわかっているような気がしているからだ。まだ言葉になっていないだけで言葉はどこかにあって、あとはそれにかたちを与えられる言葉をさがすだけ(複雑なセンテンスになってしまった)。
渋谷にはまたビルが増えた。川の上のきれいなビルだ。わたしはけっこういいなと思ったが、「わざわざ川をおしゃれに演出するなんていやらしい」という知りあいもいた。
古いものに新しいものが重なって、目に見えるものと目に見えないものとが町に積もってゆくのを思いうかべる。町についてなにもわからないといいながら、わたしはほんとうはすでになにかをわかっているような気がする。

それを言葉にしたくて書きはじめたんだろう、
というささやかな出発地点を「わかる」だけのために、この連載を四回分も通り過ぎてしまった。